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十三塚原

  鹿児島空港近くを通過している九州自動車道の傍らに、十三塚原史跡というものがあります。 この史跡は、鹿児島神宮と現在の宇佐八幡宮が八幡宮の正統性をめぐって争った事件の犠牲者を弔う史跡と伝えられてきました。

十三塚の由来は、豊前の宇佐八幡宮と大隅の正八幡宮である鹿児島神宮とのあいだに、八幡神社の正統性が争われ、宇佐から14名の密使が大隅に送られ、鹿児島神宮に火をつけて逃走中、ここ溝辺の地で十三人が斬られ、残り一人だけが豊前に逃げ帰った言い伝えにあります。
 伝説はただこれだけのものに過ぎませんが、この史跡には、二つのポイントがあります。一つは、宇佐八幡宮に対して、大隅の八幡宮との正統性の争いがあったという事実。この事実が示唆するものは、日本全国に広がっている八幡信仰のルーツが、大隅の地にあるのか、宇佐の地にあるのか、一般に考えられているほど、単純ではないということです。

 
この史跡は小さな史跡に過ぎませんが、その意味するところは《八幡信仰》の本源に関係するところになるかと思います。現在では八幡信仰の本社は大分県の宇佐大社ということになっていますが、鹿児島神宮の縁起にも見られるように、そう簡単に片づけられのかなというのが私の感想です。

 もう一つのポイントは、この史跡の地名です。十三塚という史跡名です。青森県の十三湊(とさみなと)のルーツは、《じゅうさん》にあり、もともとこの地に十三塚があり、それに由来するという説があります。そしてこの十三塚は熊野信仰と関係があるというものです。それでは、鹿児島神宮の近くに熊野信仰の形跡があるかといえば鹿児島神宮から数キロほど離れたところ、真孝宇都馬場というところに《熊野神社》があります。ここの地名は、《宇都》というところからして、隼人と関係の深い地名であることも推測できます。隼人は熊野信仰との関係もあることが推測できるわけです。

 鹿児島には《宇都うと》という地名が多くありますが、これは地形に対する名称のようで、土地が行き詰った場所という意味のようです。もともと《と》という音がそれを意味し、《う》は接頭辞ではないかと思います。《戸》は《と》と同じで、霧島市に残されている《入戸いりと》という地名も《宇都うと》と語源は同じだろうと思います。 熊本の《宇土》《宇土半島》や宮崎の《鵜戸神社》も隼人の関わった土地ではないかと思います。 阿多隼人は対馬海流沿いに北上し、甑島から天草さらに長崎半島へも関わっていたと思います。

 
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