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第11回 戦場に死した夫の片腕を形見にした妻の巻



広島市の郊外に可部町という街がある。この街は、中世この一体の荘園地頭であった熊谷氏の屋敷街として作られていった街である。大田川と三篠川が合流する地点で、太田川水運の基地としての意味があったのであろう。当初の居城伊勢が坪城から戦国末期、太田川に近いこの高松山城に居城を打ちしたのも、発展する経済的な利便性を考えてのことであろうと思われる。
 その太田川を見下ろすかのように、熊谷氏の居城高松山城が屹立している。高松山城の本丸跡からは、遠く広島市街地を一望できる。
 熊谷氏の館は、その高松山城の山麓に位置しているが、その館跡から根谷川を挟んで数百メートル離れたところに熊谷氏の菩提寺観音寺跡がある。現在は、県の史跡に指定されているが、あまり訪ねる人もなく、ひっそりとひなびているこの菩提寺跡の奥づまったところに「清泉」と書かれた小さな湧き水が湧いている井戸がある。薄暗く昼間でもいい感じはしない。


 この泉こそ、今回の舞台である。
 時は、1517年12月22日、毛利元就の初陣の時である。ときの安芸国の守護職を自認していた武田元繁は、安芸国北部から吉川氏の勢力を駆逐しようと安芸国の国人領主たちを動員し、北部の有田城を奪回し、その勢いで毛利氏の領地へも支配を及ぼす姿勢を見せたことで、毛利元就は急遽出撃せざるを得なくなった。毛利元就19歳のときである。
 武田元繁る配下の安芸の国人領主は、武田氏を中心に、香川氏、熊谷氏の連合軍約5千。対するは毛利元就の率いる軍千数百。毛利元就は朝霧の中、有田城の北に広がる湿地帯中井出に防御柵を作って守っていた熊谷元直の陣に襲い掛かった。
 元就の旗本三百騎が熊谷元直の本陣を一文字に突くと、熊谷勢は総崩れしたが、熊谷元直は敵に後ろは見せじと敵に突撃していく中、敵の矢を額に受け落命したという。
  その後、元就の陽動作戦に乗って有田城からおびき出されるようにして出撃してきた大将の武田元繁は、待ち構えていた伏兵に射止められる。これによって名門武田氏の衰退が早まることとなるのである。
 この日の戦いで、戦死者は毛利軍で生き残ったもの数百というから、以下にすさまじい戦いであったかは推測できよう。


 戦いに負けた武田氏方の国人領主たちは、それぞれ帰参していったが、館に逃げ帰ってきた将に、主人の遺骸を尋ねた熊谷元直の妻は、そのまま戦場に放置してあることを聞いて、その不甲斐なきことを憤ったという。
 その夜、夜影に紛れ一人馬に乗り、夫の遺骸が残されている戦場跡へと向かったという。
  戦場跡に放置されている夥しい遺骸の中から夫の遺骸を暗闇の中で探し出すのは容易なことではなかったであろう。なにせ大将クラスの首は実検のため取られているからである。さらに当時の戦場では、武具などのめぼしいものの強奪は一種の慣行として定着していたから、まさしく身ぐる剥がされた状態になっていたであろうことは推測に難くない。
 それでも夫婦の契りを交わした仲である。元直の腕には腫れ物の跡があった。そのわずかばかりの手かがりを頼りにして、やっとの思いで夫の遺骸を探し当てた妻であったが、いざ連れて帰ろうかと思いきや、女性一人の非力では館まではとても無理と思われた。そこで、彼女は泣く泣く夫の腕を切り取ると、馬を一気に駆け出させた。
 彼女は館に戻ると、現在「清泉」と呼ばれる湧き水の井戸で切り取ってきた夫の片腕を洗い清めたという。現在、観音寺跡の境内に熊谷氏の五輪塔などか数多く並んでいるが、元直の片腕もこの墓所のいずれかに埋葬されたことであろう。
  元直の妻にとっては、ただ単に愛情の故だけでなく、武門の意地にかけても大将の遺骸を戦場に放置しておくことはできなかったのであろう。なにせ、熊谷氏といえば、武士の鑑とまで言わしめたあの熊谷直実の末裔である。

 

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