サムライワールド>史跡物語


第13回


島津義久、人生最大の痛恨 の巻




 国道10号線を鹿児島市から宮崎方面に10キロほど北上したところに、古びた寺院跡がある。JR鉄道線が通っているすぐ脇のほうだが、よほど注意しないと見過ごしてしまう。ここからは、眼下に錦江湾を見下ろし、遠くに桜島を遠望できる。歳久が死場所をここに求めたことも、何故かわかるような気がしてくる。
 歳久とは、島津歳久という武将のことだが、地元の人々もほとんど知らない。島津義久を長兄とする島津四兄弟の中で三番目にあたる。
 時代は、大きく秀吉による天下統一へと動き出している時である。島津氏は長兄の義久、次弟の義弘、そして歳久、末弟の家久の四兄弟が出るに及んで島津氏最盛期を迎える。九州制覇を目前にして、秀吉による九州征伐の前には、さすがの島津氏も屈服せざるを得ず、1587年5月、ついに島津義久は剃髪し、薩摩の川内にて秀吉に謁見する。しばらく時を置き、次弟の義弘も降伏する。しかしこの時、歳久は秀吉の所についに参上しないばかりか、秀吉が引き上げていく際、わざと険しい山道を案内し、秀吉の籠めがけて矢を射掛けさせたという。歳久の部門としての意地であったのであろう。この折は、秀吉もそれほど気にかけなかったが、この些細な事件が、後々運命を左右することになろうとは、露にも思えなかったろう。
 時は、秀吉の朝鮮渡航が行われている最中のこと。 梅北国兼という武将が日ごろから秀吉政権に不満を抱いていて、朝鮮に渡航すると見せかけて、肥後に引き返し、現在の水俣付近にあった佐敷城を攻撃。しかしあっけなく打たれ、反乱は容易に鎮圧されてしまう。
 この時、義弘とその息子久保は朝鮮に渡航して第一線に出陣、当主の義久は老齢のため肥前名護屋城の秀吉の元に滞陣中だった。秀吉は義久に、直ちに薩摩に帰り国兼を打つように指示するが、帰郷を追いかけるように、歳久の首を差し出すようにとの命が届く。
 罪状は五箇条にしたためてあったが、その中の二か条として、先年の非礼を持ち出してきた。一つは、秀吉の陣に終に出向いて降伏し謝罪しなかったこと、帰路秀吉の籠に矢を射掛けたことである。他の罪状は、今でも礼を欠いていること、朝鮮に渡航しなかったこと、梅北国兼の乱に歳久の配下のもの多数が参画していたこと、などてある。
 歳久の首を差し出さなかった場合は、島津氏を攻め滅ぼすと強硬に威嚇され、義久も観念し、数々の戦の中で共に苦労してきた弟を犠牲にして島津家を存続させるしかないことを悟る。
 伊集院から鹿児島に呼び出された歳久は、城下で始めて自分の置かれている立場を理解し、共の者100名ほどと帖佐方面から伊集院へ帰郷することにしたが、すでに海上にも義久の手のものが退路を断っていた。如何ともしがたいことを悟った歳久は、鹿児島から数キロほど北の竜ヶ水というところへ向かい、そこで最後を迎える決心をする。
 歳久の部下たちは、決戦をして潔く死にたいと要望し、追っ手を迎え撃つ。歳久はこの時、手足が痺れるなど不自由な体になっており、自害もままならない状態であったので、早く首をはねるように命じるが、義久の実弟であるということ、さらには打つ方の武士たちも、今回の秀吉の命を理不尽と理解していたので、なかなか歳久の首が打てないでいた。しかし三回ほど促したところで、ようやく首を打ったと言う。
 義久は、歳久の最後の様子に耳を傾けながら、嗚咽したという。義久は、この地に歳久の菩提を弔うために心岳寺を建立した。明治維新の廃仏毀釈のため現在は廃寺となっている。歳久の墓の向こうには、殉死していった部下たちの墓が並んでいる。

 辞世の句


   晴蓑めが魂のありかを人問わば

    いざ白雲の末も知られず 

 
 
※晴蓑とは、歳久の号

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