第14回


関が原敗戦の将、薩摩に蟄居す の巻




 桜島の見える国道沿いに、聞き覚えのある武将の碑があった。今では普通の民家になっているので、わさわざ車を止めて見物する人も少ない。
 この碑には、『権中納言宇喜多秀家公潜居地平野家下屋敷跡』と刻んである。
 関が原の戦いで、騎兵約1500、雑兵役15000という西軍最大の軍を率いて参戦した備前の宇喜多秀家が、敗戦後、島津氏を頼って薩摩に落ち延びていたことは、周知の事実だが、薩摩の地のいったいどこに匿われていたかは、よく知られていない。終焉の地は、ご存知鳥も通わぬ八丈島であるが。
 宇喜多秀家は、備前の豪族宇喜多直家の子で、豊臣秀吉の中国地方侵攻に際して、毛利氏に対する前線への備えとして秀吉の戦略の中に取り込まれていくことで、秀吉の下で57万石という大大名に飛躍していく。天正13年11歳で元服したときには、秀吉の一字を与えられて家氏を秀家と改め、従五位下侍従に叙せられ、同15年参議従三位、同17年には秀吉の養女となっていた前田利家の三女をめとり、文禄3年(1594)には朝鮮出征の軍功で権中納言、慶長2年(1597)朝鮮再征には、毛利秀元とともに監軍として渡海し、同3年には五人の年寄衆(五大老)の一人に補せられる。
 しかし、その彼にも転機が訪れる。関が原の戦いである。戦いの緒戦では、福島正則軍を蹴散らすなど、一時は西軍有利の形勢を作り出しほどの勢いだったが、松尾山に陣を敷いていた小早川秀秋が西軍を裏切り襲い掛かってくるに及んで、形勢が逆転。惨敗した秀家は家臣の進藤三右衛門・黒田勘十郎の二人に守られて、一時は伊吹の山中に身をかくしていた。その時に読んだ一首が次の歌である。

山の端の月はむかしにかはらねど
      わがみのほどは面影もなし

 そこからどのような経路で薩摩に落ち延びたかすは定かではないが、島津義弘は、島津家を頼って落ち延びてきた宇喜多秀家を牛根辺田の平野家に囲って、辺田在地の武士たちに監視させた。蟄居していたころの秀家は、ひたすら謹慎の意を表し、毎日近くの神社に詣でていたと伝えられている。
 島津氏は、秀家の死罪罷免を願い出るも家康に却下。そこで幕臣本多正信を介して再度意向を伝え、1603年、死一等を減ぜられ、1606年4月に八丈島に流されていくのである。死一等を減ぜられた背景には、徳川氏の島津氏への配慮もあろうが、正室の実家前田家からの働きかけも忘れるわけにはいかないだろう。1655年に84歳の高齢で没したと伝えられているが、その間毎年、妻の実家である前田家や、旧臣花房志摩守(旗本)などから米その他が送られたとされる。この慣行は幕末まで続けられたと言う。
 若き貴公子、宇喜多秀家が見上げていたであろう桜島を見るだけしか、かすかな歴史を手繰り寄せる術がなさそうなスポットである。

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