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第15回 和気清麻呂、大隅に配流の巻



鹿児島県姶良郡牧園町(霧島市)に和気神社と呼ばれている社があります。今では4月の藤祭りのとき多くの観光客で賑わう観光スポットになりましたが、かつては地元の人々も特に関心もないような場所で、存在感のない雰囲気を漂わせていました。
 しかし、そもそも日本最南端の地鹿児島に、なぜ和気清麻呂の神社があるのかということは、そう簡単な話ではなさそうなのです。

 本題に入る前に、和気清麻呂について簡単に触れておきたいと思います。和気清麻呂が日本史に登場するのは、道鏡事件の時であることは日本史に興味のある方でしたらご存知のことと思います。道鏡事件とは、孝謙上皇、のちの称徳天皇の寵愛を受けていた僧道鏡が、宇佐八幡宮のご神託を利用して皇位を狙う動きをしたため、和気清麻呂が宇佐八幡宮にご神託の真否を問いに派遣され、「君臣の秩序を重んじ、皇位には皇統から選び就けて、無道の人を除去せよ」というような内容の真っ向から道鏡に反対するご神託を伝えて、道鏡の野望を阻むという事件です。
 和気清麻呂はこの神託事件で、称徳天皇の怒りをかい、宇佐に、それからさらに大隅に配流の身となります。
 普通ならそれで終わりそうなんですが、なぜ、ご神託が宇佐八幡宮でなければならなかったのか、なぜ豊後の宇佐に行かなければならなかったのか、そしてなぜ大隅のこの地に来なければならなかったのかということです。読者の皆さんは、何の脈略もないように思われていたのかもしれませんが、実は和気氏と豊後の宇佐と大隅のこの地は、一本の糸で結ばれていたと思われます。その一本の糸とは、秦氏です。

 秦氏についての詳しい説明は、今回は割愛させていただきたいと思います。ただ渡来系の大氏族で、日本史の節目節目で語られる氏族です。殖産技術系の分野で活躍していく氏族ということです。京都を中心に全国広く分布していたようです。京都はこの秦氏が開発した土地であることはよく知られています。もっと端的に言えば、桓武天皇の平安京遷都とは、秦氏のプロデュースによるものと言う専門家もいます。
 ところで、近江近辺が秦氏の本拠地のように考えられがちですが、元々秦氏は朝鮮半島の新羅系統の渡来民のようですから、他の初期渡来系がそうであるように、北九州近辺に上陸したと考えるのが自然でしょう。彼らの初期勢力圏は、すばり現在の大分県、豊後、江戸時代の中津藩あたりだったと推測されます。それからもともと豊後の地にいた宇佐氏を駆逐する形で南下して言ったと思われます。宇佐氏と秦氏との信仰形態の合作が宇佐八幡宮のようです。宇佐八幡宮の神は、八幡神と比畔神のニ神から成り立っていて、秦氏の神が八幡神、宇佐氏の神が比畔神ということです。
 九州の中でも、現在の大分県に仏教遺跡が多く見受けられるのも、このような脈絡の中で考えるた方がいいわけです。一説には公式の仏教伝来と言われている552年以前にすでに豊後には仏教が伝来していたとも言われています。

 
 次に現在の鹿児島の大隅にある牧園町と秦氏との関係です。この両者の繋がりができるのは、720年養老4年、隼人の乱が契機になります。隼人族はもともとは、早い段階から大和朝廷と密接な関係を持っていて、近畿にも隼人族は移住しているわけですが、地元の隼人族は、中央政権に組み込まれることに抵抗します。その隼人族の大規模な反乱が720年の隼人族の最後の抵抗です。中央政権は、大隅での隼人族の抵抗を懐柔するために、その少し前から豊後の住民を数千人規模で大隅の地に移住させたとあります。当時の大隅地方の人口が約2万人ほどと見積もられていますから、割合としては大規模な移住政策です。当時の大隅国府は、現在の隼人町、国分寺が国分市にありましたから、豊後からの移民たちは、隼人町、国分市、それから隼人町の北に位置する牧園町あたりに分布したと推測されます。霧島町から、国分にいたる現在の県道60号線には、今でも豊後追という地名が残っていて、地元では《ぶんごさこ》と呼ばれています。鹿児島では迫は坂の意味です。この峠を超えると、国分平野を一望できます。豊後からの人々がこの峠を越えてやってきたことに由来しています。
 現在の行政区分である国分市、隼人町、牧園町は、律令制度下での行政名は、桑原郡と呼ばれていました。桑原郡に関しては、豊後の香春神社があるところが桑原郡と呼ばれていますし、大和の桑原の地にも朝鮮からの職人が住んでいたと日本書紀の記述にもありますから、前述の秦氏との関係が濃厚です。秦氏の人々が地名を引きずっていると推測できますし、桑原という地名は、桑の木と養蚕との関連が想起され、秦氏の殖産的特色を裏付けるわけです。
 このように現在の牧園町の和気神社があるところは、実は秦氏の勢力下にあったとみて当然です。または、秦氏一族が移住し、開発した地域と言えます。
 そうしますと、和気清麻呂が関係していた宇佐八幡宮、配流先の桑原郡稲積里というところは、秦氏の勢力下という共通項があるわけで、和気清麻呂ははじめから秦氏との関係の中で行動していることも推測できます。

 最後に秦氏と和気清麻呂との関係についてです。
 和気清麻呂の地盤は、現在の岡山県山陽町から和気町あたりです。いわゆる備前です。地元にも和気神社はあります。そして、その和気氏を挟むような形で秦氏勢力が入り込んでいたと思われます。現在の岡山県総社から賀陽町、建部町あたりです。例えば、法然の父親はこの地域の豪族ですが、母方は秦氏と言われています。この地域の有力な一族として栄えていたことを物語っています。
  それから、眼を東に転じると、和気氏の西側には赤穂市、さらには多田源氏発祥の地が展開しています。赤穂市には、大避神社がありますが、この神社は秦河勝を奉っていることはよく知られている通りです。赤穂市と秦氏とは切っても切れない深い関係にあります。
 和気氏と秦氏は、現在の岡山県から兵庫県にかけて、接触していたと思われ、この段階で何らかの接点を持っていたと推測されます。
 さらに両氏に重要で共通なことは、どちらも鉱物資源の産地を押さえているということ、したがって鉱物資源の開発という点で、接点があります。その点では、鹿児島の大隅にわさわざなせ秦氏が大量に移住しなければならなかったのか、その本当の理由がうまく説明できるわけです。
  鹿児島という土地は、鉱物資源の宝庫だったからです。
現在でも菱刈金山という日本一の金の埋蔵量の鉱山をはじめ、錫鉱山では日本でも兵庫県の明野鉱山と鹿児島県の谷山鉱山くらいしかなかった言われています。銅山も各所にあります。和気神社がある地域は《妙見》と呼ばれていて、現在では妙見温泉で有名なところですが、そもそも《妙見》という地名そのものは、新羅系の妙見信仰に由来しており、神聖な山岳信仰、さらには鉱山信仰と結びついています。鹿児島が日本有数の鉱物資源の宝庫であったことは意外と知られてない事実です。
 宇佐八幡宮が歴史に登場してくるのは、東大寺大仏の造営のときですから、これは大事業に当たっての金銅などの鉱物資源や膨大な職人の調達を宇佐八幡宮がバックアップしたということを物語っていて、その背後に殖産公民を抱える秦氏と和気氏がいるという構図になると思います。

 ところで、写真をみてお気づきの方がおられると思いますが、神社の入り口で左右に鎮座しているのは、猪です。これは和気神社の特色です。この猪が何を意味しているのかと言えば、ずはり秦氏です。秦氏が和気神社を守護しているという意味です。

 なぜ猪が秦氏を意味するか言いますと、日本書紀の中で、和気清麻呂が宇佐に下向している最中宇佐の近くまで来たとき、脚が萎えて歩けなくなったとき、突如猪が300頭ばかりいでで、道案内をしたという記事がありますが、この猪こそ秦氏の道案内を象徴しているわけです。和気清麻呂は秦氏の保護下に配流されてきたと言えます。
 因みに、この和気神社どのような経緯でこの地に建立されたかといいますと、幕末、時の聡明な君主島津斉彬が京に寄られた折、三条実美卿から和気清麻呂公のことについて、桑原郡稲積里という場所を調査してくれという依頼があり、家臣に調査させたところ、現在の牧園町妙見という地が比定されたとあります。近くには、和気清麻呂が通っていたと伝えられる露天風呂があり、今でも住民の疲れを癒しています。

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