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鉄砲で最初に撃たれた日本人の現場検証−赤穴城跡の巻



  長篠合戦に関する私たちの常識的なイメージの再検討など、鉄砲が登場してからの合戦の本当の姿を検証された書物として鈴木真哉氏の『鉄砲と日本人』がありますが、その中で 日本で最初に鉄砲による日本人の負傷が登場する合戦として 尼子氏配下の赤穴城が取り上げられています。
 今回は、記念すべき不名誉な日本人初の鉄砲負傷者が出たとされる合戦場を紹介することにしましょう。
 赤穴城は 現在の広島から島根松江を結ぶ国道55線沿いにあります。広島から国道55線を走り県境の赤穴トンネルを抜けると行政区は島根県赤来町です。現在の国道から脇道があり、そこは昔の街道の姿をそのまま残しています。その街道を見下ろすかのように瀬戸山が聳えています。赤穴城は別名瀬戸山城とも言われています。深い落ち葉の山道を一時間足らず登ると 赤穴城本丸跡に着きます。そこから石見の山々の風景が広がります。こういう風景を見るたびに 合戦というイメージとどこかそぐわない時代との落差を実感してしまいます。

 赤穴城は 尼子十旗と呼ばれる出雲月山富田城を防衛する十の城の中の四番手として位置づけられていました。第一が白鹿城 第二が三沢氏の三沢城 第三が三刀屋氏の三刀屋城 第四が 赤穴氏の赤穴城です。尼子氏にとっては この城は安芸国への最前線の防衛地点と位置づけられていたと思われます。
 この赤穴城が合戦の表舞台に登場するのは、1542年6月です。この年の1月山口の大内義隆は一万五千の兵を率いてゆっくり尼子征伐の途上に出陣します。安芸で毛利氏などの安芸国人勢力を合流させ膨れあがった大内軍は、安芸から石見路を北に進攻し、出羽氏の二つ山城に陣をしいて逗留します。ここで石見の国人勢力を合流させます。
 そして最初の尼子氏の攻撃目標が尼子十旗の四番手の赤穴城です。城主赤穴光清をはじめ、さらに尼子晴久から送られた援軍約1000名を合わせ、約4000くらいの兵力で城を固め大内軍を迎えます。

 雨期に入っていたようでなかなか思うように合戦は進まず 膠着状態になっていたころ、安芸国の熊谷直続が6月7日、二百騎ばかりで付近の民家に火をかけ始めたので、城から赤穴光清、尼子氏から派遣されていた田中三郎左衛門が一千余騎で打って出、熊谷直続を追い込んでいきます。逃げ切らないと悟った熊谷直続は、五十騎ほどで向かって行きますか、あちこちから矢を射かけられ絶命してしまいます。赤穴城攻防戦で唯一のハイライト部分です。
 それでもなかなか膠着状態が解けず 毛利元就と陶隆房が軍議をこらしついに7月27日未明に一斉に攻撃を仕掛けます。このさい城からは石や矢などで猛攻撃しますから、多分この中に尼子氏が持ち込んでいた鉄砲があり、それによって出羽氏の部下が負傷したと思われます。

 しかし 鈴木氏が言われるように『これはヨーロッパ系の小銃ではなく、石弾を用いる粗製の銃だったのかもしれないが、それも鉄砲には違いないから、出羽祐盛の部下の安国刑部丞、土屋宗兵衛尉ら九人の面々こそ、鉄砲による負傷者として、最初に名をとどめた人たちということになる。』

 ここに出てくる出羽祐盛とは、二つ山城の城主のことです。この日の総攻撃は『陰徳太平記』によれば、午前5時半頃から陶 、吉川、平賀の諸氏の軍勢が大手門から総攻撃をかけたものの 昼過ぎになっても城が落ちる気配はなく、陶 吉川 平賀諸氏は総勢千名ほどの負傷者が出たとあります。
 相当激しい攻防戦がこの日行われたようです。夕方になって大手門が閉じられたので、この日で決着はつかない、いったん後方まで引き上げて休憩しようと思っていたものの、意外にもこの夜城方から降参してきたというのです。理由は、陶方が放った矢が城主の赤穴光清の喉元を射、城へ逃げ帰ったものの息絶えてしまったというのです。城主が死んでしまっては 戦えないということで、妻子の命を助けることを条件に 残った兵はこの夜のうちに月山富田城めざして落ち延びていきます。

 こうして2ヶ月にわたった出雲攻略の緒戦は城主の死亡という形であっけなく終わります。
 大内義隆の出雲遠征は この赤穴城で手間取ったことにその後の彼の運命が暗示されているかのように、大失敗に終わるわけです。期待していた養子まで敗走途中で戦死させ、やっとの思いで山口まで帰還した後は、政治から心が離れたかのように文化生活に耽溺し、陶隆房に反逆されてしまいます。毛利元就も人生最大の危機に見舞われ吉田に帰還。その後大内氏を見限り独自の路線を歩んでいくことになります。この赤穴城攻防戦は別の点では 名門守護大内氏滅亡への緒戦だったのかもしれません。

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