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第18回 大内義隆、覚悟を決める 巻



山口県長門市というところに、大寧寺という古刹があります。その寺は大内氏最後の当主大内義隆主従が果てた場所として知られています。その寺の一角に《姿見の池》と《兜掛けの岩》という史跡があります。今回はその一つ《姿身の池》についてご紹介しましょう。
 大内義隆は中国地方の太守として名声を得ていた大内氏第31代当主として父義興が亡くなると1528年家督を継ぎます。父義興は文武両道に優れた武将で、山口に身を寄せていた足利義種を担いで京に攻め上り将軍職に就け、その後見役として中央の政治にもにらみを利かせるほどの武人でした。その父と比較すればはやり見劣りするところはあっても、義隆の前半生は武人としても立派な功績を残しています。父義興の遺産のの上に、大内氏の黄金時代とも言えるものを創生します。《西の京》と呼ばれる山口市は、その大内義隆の贅を尽くした街づくりの遺産です。
 しかしそんな大内義隆に転機が訪れます。それは1542年の出雲の尼子遠征の失敗です。失敗と言うよりは、大敗です。この遠征の大敗は大内氏にとってターニングポイントになります。退却するとき、将来を託していた養子の大内義晴を宍道湖付近で死なせる大失態を犯してしまいます。このことが遠因で政治から遠ざかり、専ら文化にうつつを抜かすようになったとよく言われています。
 しかし大内氏最大の痛手は、毛利元就が大内氏を見限ったことと私は思います。遅々として一向にはかどらない戦の仕方に毛利元就は、大内氏への失望感を抱いたのではないでしょうか。この戦いの最中に、毛利元就は非常に重大な決定をしたのではないのか、そう推測しています。そして毛利元就も危うく命を落とすような危機を脱して郡山城に帰還するや否や、彼の次の戦略が次々に展開されていくのを見れば、彼の青写真は、この出雲遠征中にある程度描かれ始めていたのではないかと思います。
 大内氏の安芸国支配の要であった毛利元就の精神的な造反に、このとき大内義隆は気づくべくもなく、どこかで毛利元就という稀代の武将が援護してくれるのではないのか、そんな甘い感触を最後まで持ち続けていたようです。
 出雲遠征の失敗から政治への関心を失い、文治派の相良武任らを重用し、武断派の陶晴賢が反発して、結果として1551年陶晴賢が謀反を起こすに至るわけですが、その背後でこの大内氏内部の亀裂を巧みに利用していたのは、他ならぬ毛利元就です。
  陶晴賢が《謀反》のレッテルを覚悟の上で半旗を揚げるには、大内氏の影響下にある安芸国の国人一揆の実質的な盟主たる毛利元就のゴーサインがなければ動けなかったはずです。
 そんな画策が裏で動いているとは露ほども疑わず、 陶晴賢が山口から自領の周防若山城に引きこもることも敢えて引き止めていません。よもや謀反などという思いが大内義隆の中にあったのでしょう。そもそも陶晴賢の陶氏は大内氏の分流であり、大内氏の筆頭家老としての信頼感、また義隆と晴賢との個人的な関係(男色ですね、当時としては珍しくないのですが)など、最後の最後まで状況を読みきれず、華やかな山口の町からこの長門へとわずかな共とともに逃避行する羽目になります。
 この長門を大内義隆一行が目指したのは、長門の港から石見の吉見氏を頼ろうとしたからです。義隆の姉が吉見氏に嫁いでいたからです。しかし当時海上があれ、沖に船を出したものの石見の方角へ動く気配もなく、仕方なく陸路この大寧寺に引き返してきたのです。そのとき、大内義隆が兜を脱いで掛けたと言われている岩が《兜掛けの岩》で、兜を脱いで顔を洗おうとしたが、水に顔が映らなかったので、ついに命の潰えたことを悟ったと言われているものが、今回紹介する《姿身の池》です。この《姿身の池》しか、彼が置かれていた状況を悟らせるものがなかったというのが、大内義隆の悲劇を物語っているのかも知れません。義隆はこの後、寺に入り禅問答したあと、後の始末のことを託し、従容として自害して果てたと伝えられています。

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