第19回


サムライ キリスト教に出会う 巻



 鹿児島市から車で国道3号線を北上すると伊集院と言う町に至ります。伊集院駅を降りると駅前には、凛々しい島津義弘の騎馬姿の銅像が立っています。伊集院にある徳重神社は島津最強の武将島津義弘を奉る神社です。そのため伊集院と島津義弘とは縁深き関係でつながっています。
 その伊集院の町を見下ろすように、戦国時代末期の一宇治城跡があります。この城は、島津氏15代の島津貴久が三州(大隈、薩摩、日向)統一に向けて本城とした城です。島津氏はこの貴久の息子たちの義久 義弘を中心にして三州統一から九州統一戦へと最大最盛期を迎えていきます。
 この一宇治城は、島津氏の本拠地として知られているだけでなく、もうひとつの歴史を刻み込んでいます。その後の日本の歴史に大きな影響を及ぼすことになる一ページがこの城から始まったわけです。
 その一ページとは、日本にキリスト教を布教するためにやってきた《フランシスコ・ザビエル》が、鹿児島の地に上陸し、ここ一宇治城で島津貴久と会見したことに始まるわけです。
 
 フランシスコ・ザビエルは、1506年現在のスペインのバスク地方のザビエル城で領主の息子として誕生します。父は王国の宰相まで勤めたほどの人です。この当時スペインとフランスの両国の間にあったナバル王国という小さなバスク人の王国は、スペインとフランスの強国の戦争に巻き込まれて滅亡。それと共にザビエルのその後の運命も変わっていきます。
 ザビエルは学問を志し、パリ大学へ留学。その地で同じバスク人で年長のイグナティウス・ロヨラに出会います。
 ザビエルは初めのころは教会の司教になり学者として出世していこうと考えていたらしいのですが、ロヨラの熱心な説得でついにキリスト教布教の活動に身を賭していくことになります。ロヨラは同士6人を集め、誓いを立てます。1543年8月のことです。イエズス会の誕生のときでした。
 ザビエルが東洋の地に来ることになったのは、単なる偶然によるものですが、歴史とは結局偶然が集積したものかも知れません。
 聖地エルサレムを目指していたザビエルたち一行は、ローマに留まり、エルサレムへの船を待っていたのですが、トルコとの紛争などがありチャンスが来ず、ローマで宣教活動などをして過ごしていきます。そんな折、ポルトガルのジョアン三世は、イエズス会の熱心な活動を伝え聞いて、ポルトガルのアジアの拠点へぜひイエズス会の宣教師たちを数人ほど派遣したい旨ロヨラに働きかけてきます。
 ロヨラは6名という要請の人員を2名に減らし、シモン・ロドリゲスとニコラス・ボバディリアを推薦します。しかしニコラス・ボバディリアは在ローマのポルトガル大使が本国へ帰国しなければならない前日にしかも高熱を発して、ロヨラの召還に応じてローマに帰ってきたので、とても大使と共にホルトガルへの同行は無理と判断されます。
 大使の本国への帰国を前日に控え、ボバディリアの代わりに誰をインドへ派遣するのか、ロヨラの頭によぎったのはフランシスコ・ザビエルでした。ザビエルは承諾し、ここに歴史が大きく動き出すことになるのです。こうしてフランシスコ・ザビエルの名が私たちの日本史の教科書に登場することになります。ザビエルがインドへ向かうことになることは、偶然だったわけですが、そのザビエルが日本の地を踏むことになることもまたそれ以上に偶然の産物でした。
 
 ザビエルがインドのゴアに上陸したのは1542年の5月です。ザビエル37歳のときです。インドのゴアはバスゴ・ダ・ガマがインド航路を発見して以来ポルトガルのアジアにおける第一の拠点として位置づけられていました。彼はそのゴアを拠点に広く東南アジア一帯に活動を広げます。
 1547年12月、彼がたまたまマラッカで原住民の結婚式をしているところに、友人の船乗りがそれまでザビエルが見たこともない様相の人々を連れてきます。それがアンジロー(またはアジローとも)とその伴侶たちでした。
 アンジローは薩摩の人で、郷里で人を殺したことで追われていて、薩摩に寄航中のポルトガル船に乗船して追っ手から逃れていました。彼は当時片言のポルトガル語を話せたといいますから、商人あたりではなかったと推測されます。
 ザビエルは、アンジローと会見していろいろ話していく中で、それまで彼が遭遇してきたインド人やほかのアジアの人々とはまったく異質な人間を感じたようです。彼がアンジローの中に見たものは、教養と礼儀と好奇心にあふれた人間だったようです。このアンジローとの出会いによって、彼はついに日本行きを決断することになります。
 1549年6月にアンジローを同伴しマラッカを出港し、その年の8月(旧暦の7月)に鹿児島の錦江湾に到着。こうしてついにキリスト教が日本に上陸したのです。

 薩摩に着いたザビエル一行は、アンジローの案内で島津貴久のいる一宇治城に入ります。島津貴久は、種子島に到着したポルトガル人が持ってきた鉄砲などのことから、南蛮人への非常な関心を寄せ、早速ザビエルと会見し、キリスト教布教の許可を与えます。ザビエルは島津氏の菩提寺であつた福昌寺で布教を開始します。薩摩の人々は単なる好奇心からザビエルに興味を持っていたらしく、本当に彼らの教義を理解していたかは疑問です。それでも鹿児島滞在1年くらいの間にある程度の成果は挙げたようです。しかし最初仏教の一派として認識していた薩摩の人々からの反キリスト教への攻撃が高まりを見せ始め、長崎の平戸にホルトガル船が入港した連絡を受け、もともと日本の《王》に会いたいと希望していたザビエルは、川内から船で平戸へ向けて薩摩の地を離れていきます。

 島津貴久とザビエルとの一宇治城での会見は、日本と西洋との出会いの歴史的な一頁でした。結局日本にキリスト教がザビエルが期待したほどには根付くことはなかったわけですが、その後の日本の歴史に与えた影響は計り知れないものがあります。その歴史的な一頁の記念碑の前に佇んで、この地はもっと日本中の人々に知られて然るべきところのような気がしました。
 すくなくともわれわれ日本人が《西洋》を語るとき、この《会見の地》はペリーの黒船に劣らず意味のある場所のような気がします。


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