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第20回  ゴボウのために殉死に遅れたサムライの巻




 鹿児島県加治木町木田付近で、国道10号線から蒲生町へ分かれる交差点の傍らに《後藤塚》と呼ばれる史跡があります。これは、山路後藤兵衛種清が、主君島津義弘に殉じた場所です。
 山路種清は、日向の伊東義祐の武将山路種守の次男として誕生。しかし伊東義祐が島津氏に追われ大友を頼って豊後に落ち延びると、残された武将の中には島津氏に下ったものが多くいたとか。山路もそういう武将たちの一人だったと思われます。

 山路種清は、以後島津義弘一代に命を懸けて奉公することになります。
 島津義弘は、歴代島津氏の中でも武においてだけでなく、文化と政治業績においても突出した武将です。その島津義弘を慕う家臣は多く、それが関が原での《敵陣中央突破》という破天荒な行動を可能にするわけですが、山路種清も島津義弘に惚れ込んだサムライの一人だったようです。
 彼が主君義弘のために殉じることの決意は、すでに朝鮮に渡海中の陣中の中で述べられています。

 歴戦の勇士島津義弘が85歳の生涯を隠居先の加治木館で閉じたのは、1619年7月21日です。その遺骸は島津本家の墓所である鹿児島の福昌寺に埋葬されることになります。
 かねてより、義弘公の遺骸が加治木から鹿児島に運ばれる日に、加治木を通り抜ける《実窓寺川原》と呼ばれる川原で切腹する約束を他の仲間12人と取り交わしていました。
 島津義弘の遺骸は8月16日に鹿児島の福昌寺に運ばれることになります。当日までに心残りがなきよう身辺整理をして当日を待ちます。

 8月16日当日、朝は早くから殉死のことを聞いていた近所の人々が別れの挨拶に来ると、茶を出してはいつものようにもてなします。それから約束の殉死の時刻まで間があるので、残された家族のためにか、畑にででコボウの種を蒔いたそうです。日が昇りコボウの種を蒔き終えた山路種清は、衣服を改め約束の《実窓寺川原》へ向かいます。
 しかし帖佐から加治木へ向かう途中、湯湾嶽の麓まで来たとき、《実窓寺川原》ですでに殉死した仲間たちの様子を見に行った人々が帰ってくるところに遭遇します。それを聴いた山路種清は、もはや《実窓寺川原》まで行く必要はないと考え、傍らの松の下に座り、その場で切腹します。そのとき、言い残した言葉は、『あの世で義弘公にお会いできたら、この松の枝は3つに分かれ、この石が3つに割れようぞ』と。
 果たしてその後、松の枝が3つに分かれ、墓碑として立てた石が3つに割れたということです。松の方はとうに枯れたものの、墓碑としての石は今でも3つに割れた状態でこの地に残されています。
 山路種清、惚れぬいた島津義弘公にあの世で会えて、さぞ満足だったことでしょう。


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