Samurai World>史跡物語


第21回
戦国武将を救った名馬の巻



霧島連峰のひとつ栗野岳の麓に竹田というところがあります。このあたりは島津氏の時代、島津氏の牧場があったところで、戦後まで多くの牧場が残っていました。現在では観光用にわずかの牧場が見受けられるだけです。島津氏の時代、島津氏に供給する馬の生産地としては、栗野の他には、旧福山町の牧の原台地が大規模な牧があったところです。現在でも地名にわずかにその名残が残されています。
 栗野岳の麓の竹田の集落の山林の中に、《膝つき栗毛》と書かれた史跡が建てられています。
 《膝つき栗毛》とは、1572年に島津氏と伊東氏との間に行われた《木崎原合戦》のさい、島津義弘が騎乗していた馬のことです。
 この戦い、現在の宮崎県えびの市(当時は真幸院と呼ばれていました)で、伊東氏の軍約3000を島津氏が約400前後の兵で破った戦いで、九州の桶狭間とも言われてきました。この戦いで島津氏は、日向の大名伊東氏の主要な武将を討取り、伊東氏はこの敗戦をきっかけに日向の大名から転落していきます。
 伊東軍が戦いの最中 川内川河畔で休息していたところを、義弘は手勢50騎ばかりを率いて、油断している敵陣に切り込んでいきます。自ら槍を取って敵の大将伊東新次郎を討取ります。それから追撃をしていると柚木崎丹後守と遭遇。島津兵庫頭と義弘が名乗ると、柚木崎丹後守は敵の総大将と見て、すぐさま馬から降り、槍で突いてきます。そのとき義弘の乗っていた《竜伯》は両膝をついて、柚木崎丹後守の槍を義弘は外します。義弘の槍が柚木崎丹後守を貫いたのは、その瞬間でした。
 義弘はこの雌馬《竜伯》を生涯かわいがり、幾多の合戦に連れて行ったようです。死んだ後は、帖佐の舘の近くに埋葬します。その墓は現在でも残されています。
 《膝つき栗毛》とはそれ以来の《竜伯》のニックネームになります。
 《膝つき栗毛》は、多分義弘の合図でとっさに膝を付いたはずです。それは決して《膝つき栗毛》の判断ではなかったはずです。戦場という異常な状況の中で、的確に命令に従うように訓練されていた、というのが筋でしょう。そしてそれはとりもなおさず、それほどの名馬として育て上げる技を持っていたこの竹田の牧場の人々の賜物だと言えます。そういう意味で、《膝つき栗毛》が育ったこの竹田の牧場跡の地に、名馬を顕彰する碑が建立されているのは、至極当然のことと言えます。しかし今ではその名馬のことも忘れかけているようですので、ここに改めて記す次第です。

関連情報
薩摩紀行―膝つき栗毛の墓

 
 

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