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第22回   系図偽造の巻




 写真は、鹿児島県市来に所在する来迎寺跡の丹後局と言われている墓です。来迎寺は、市来氏の菩提寺と推定されています。この寺跡の一角に、丹後局の墓と伝承されてきた墓が残されています。丹後局と言えば、島津氏初代の島津忠久の母です。その母親の墓がどうして、この市来氏の菩提寺跡に残されているのでしょうか。

市来氏のルーツは惟宗氏ということになっていますが、そうだとすれば、薩摩の島津氏とはルーツは同じということになります。
市来氏の初代は市来政家になります。この市来政家の父が国分友成というひとで、国分氏とは、薩摩における惟宗氏一族の一つになります。もともと惟宗氏とは、中国からの帰化人である秦氏に与えられた姓であり、秦氏は日本の各地に分散定住していったと考えられます。このうち島津氏初代の島津忠久の養父と考えられている惟宗広言が最も知られている人物ですが、それは彼が中央の京都にいて、当時の最高権力者藤原氏、近衛氏の近くにいたからです。彼以外にも土佐、肥前、豊前、日向などにも惟宗氏を名乗る一族はいたわけです。

市来政家の父国分友成という人も、地方に根を下ろした惟宗氏の一人であったようです。
市来政家は、父から市来院荘園の郡司職を受け継ぎ、この地の領主として代々自負していたわけです。そこへ薩摩の守護として島津氏が入り込み、特に三代久経以降、薩摩の地に下向して直接支配するようになると、島津氏との軋轢が生じてきます。薩摩出水に本拠を構え現地支配を強化して島津経久は弟の久時を守護代にします。久経が京都に上がっている時期、守護代の久時はそれまでの在地の領主たちに何かと見下すような態度を取り始めたようです。

そのような久時の態度に業を煮やしたのか、市来政家は、島津久時に系図論争を仕掛けていきます。
市来政家の言い分は、島津氏も惟宗姓なら、市来氏も同じ惟宗姓だから、そんなに威張るな、ということです。それに対する島津久時の反論は、おなじ惟宗姓でも源流が違うぞ、ということです。島津氏の源流は、惟宗広言だから、お前たちのような田舎の惟宗氏一族ではないぞ、というのが島津氏の言い分です。ところが、これに対して市来政家が証拠として差し出した系図は、なんと先祖に惟宗広言がつながっている系図でした。この系図論争、ついには幕府の問注所の場まであがっていくことになりますが、それでも決着は付かず、その後薩摩安国寺の住持が、島津忠久の弟の系統の若狭の島津氏のもっている系図と照合することで、市来政家はやっと系図を引っ込めたということです。市来政家にしてみれば、新参者の島津氏なんぞにでかい顔をされて、面白くないので、島津氏と同じ源流を作り出して、島津氏と同格であることを示したかったところでしょう。

しかし、市来政家の言い分は、当たらず遠からずで、同じ惟宗姓であることには変わりはないわけです。この来迎寺跡に残されている丹後局の墓は、市来政家が作ったものと伝えられています。そして市来氏の居城であった鍋が城には惟宗広言の墓と伝えられている墓が現在でも残されていますが、これなど、市来政家の必死の悪あがきの成果と言えます。すべての状況証拠を作りだしたかったのでしょう。しかし市来政家の悪あがき、地元に古くから根付いている領主の立場とすれば、その気持ち現代人にも通じるところがありそうな気がします。
関連情報
薩摩紀行―島津氏のルーツ
女たちの墓―丹後局の墓
薩摩紀行―丹後局荼毘の跡
サムライたちの墓―市来氏歴代の墓
武将と古刹―来迎寺跡

 
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