Samurai World>史跡物語


No.25

サムライ、キリスト教徒になる




 伊東氏歴代の居城の本丸跡に《伊東マンショ誕生の碑》と伊東マンショの銅像があります。
伊東マンショと言えば、ローマ少年使節団として戦国時代の日本からはるか遠くスペイン、ローマへと派遣されて旅立ったサムライとして歴史にその名が残されています。
 サムライといったのは、彼は日向の大名伊東義祐の孫で、戦国大名大友宗麟の遠縁にあたる名門のサムライだったからです。
 その彼がなぜ遠きヨーロッパへ旅立って行かなければならなかったのか。
 彼がキリスト教と出会うことになるきっかけは、祖父伊東義祐が島津氏に追われて、豊後へ落ち延びたことに始まります。伊東氏は伊東義祐のとき一時は日向から薩摩北部まで勢力下に収め、日向四十八支城と言われるほどの隆盛を極めますが、同時に島津氏の反撃が始まり、一時の繁栄の裏側では伊東氏の没落が始まっていたのです。
 島津氏の日向進出が本格化すると、それまで伊東義祐の配下にあった日向の土豪たちが次々に島津氏に寝返り始め、伊東義祐は孤立します。伊東義祐の治世下において、人心はすでに伊東氏から離れていたということです。
 伊東義祐主従は近親者数十名だけを引き連れて、日向の山奥現在の、米良から椎葉さらには高千穂へと九州の背骨といわれる山間を落ちていきます。その近親者の中に幼少の伊東マンショの姿もありました。
 伊東マンショは、伊東氏の一族伊東祐青を父として1570年頃に伊東氏の本拠都於郡城に誕生します。はじめは伊東祐益と名乗っていました。
 祖父伊東義祐の没落のあおりを受けて、遠縁の大友宗麟を頼り、豊後に落ち着くことになります。そこで、キリスト教徒であった大友宗麟の薫陶を受けて、キリスト教徒と遭遇したと思われます。
 1549年に鹿児島に上陸してキリスト教を布教していたザビエルは約2年ほどの日本での布教活動を終え、そのあとをイタリア人のヴァリニャーノが引き継ぎます。彼は、ローマカトリック教会の巡察使という立場で東洋そして日本におけるイエズス会の確かな拠点作りを考えていた人物です。日本の状況を冷静に分析し、日本にイエズス会の拠点を作る必要を感じていました。そのためには日本拠点を任せられるような日本人の司祭を養成する必要を感じていたようです。その彼がプランニングしたのが、ローマ少年使節団です。
 当時の戦国大名がポルトガルとの交易から得られる経済的利益を望んで、積極的にポルトガル船の入港を歓迎していた事実を十分に承知の上で、それを逆手にとって積極的に戦国大名を利用していきます。
 ヴァリニャーノが日本を離れるときに九州の大名、有馬義純、大村純忠そして大友宗麟に対して、ローマに使節を派遣することを薦めます。
 その人選の中に選ばれた少年たちは、伊東マンショ、千々石ミゲル、中村ジュリアン、原マルティーニョの4人です。この中で伊東マンショがリーダ格になります。
 彼らは1582年2月長崎から船出し、マカオに入り、そこで9ヶ月間ほどラテン語の手ほどきをうけ、そこからマラッカ、インドのゴアを経由して1854年の8月にポルトガルに上陸します。
 ポルトガルではフィリプ2世のポルトガル代理にしてかつ枢枚卿でもあったアルベルトーーダウストリアの歓待を受け、それからスペインのマドリッドへ入ります。
 マドリッドではフィリップ二世に謁見し、大友、大村、有馬の手紙を渡します。
マドリッドでの2週間程の滞在は国賓並みの扱いを受けたようで、彼らがローマへ行くためマドリッドを去る当日にはわさわざフィリップ二世が彼らの宿舎まで訪ねて来ているくらいです。
 彼らの最大の目的であったローマ法王との会見は、翌年1585年3月になります。時のローマ法王グレゴリー一三世以下、ローマ教会は、日本からの少年使節団をそれまでローマ市民が経験したこともないほどの壮麗さで迎えます。
 当日病気でバチカンに詣でることができなかった中村ジュリアンを除いたほかの3名は、バチカンの騎兵、スイスの衛兵他聖職関係者たちの長い行列に先導され騎馬の晴れやかな姿でバチカン宮殿まで行進します。周囲はそれを一目見ようとするローマ市民で沸き返り、それはこれまでローマ市民が見たこともない壮麗な行列であったと伝えられています。
 このようなイベントもすべてヴァリニャーノによるプロデュースによるものでした。
ヴァリニャーノは、この使節団を派遣するに当たって、細かい指示を書き残しています。日本からの純真な少年たちの目的を明記し、決してそれをはずさないよう細々した指示をしています。例えば当時新しい宗教改革があり、ルター、カルビン派からの攻撃については、一切触れさせないにすること、聖職者の間における腐敗的な現場を決して垣間見せないこと、その他もろもろの退廃的な誘惑の現場を経験させないこと、出歩く時は必ず司祭が一人以上付き従うことなどなど。つまり、この少年使節団は当初からヴァリニャーノのプロデュースしたイベントであり、伊東マンショ以下日本からの少年たちは厳しい監視下のもとで行動させられていたわけです。
 そうとも知らない純心無垢な少年たちは、スペイン、ローマでの大変な歓待を経験して1590年7月、約8年振りに日本に帰ってきます。
 しかし日本を出発した8年まえとは日本の事情は急転していました。キリスト教のよき庇護者大友宗麟はすでに亡くなり、キリスト教への迫害も始まりつつありました。
 それでも豊臣秀吉との会見を行った時、秀吉は伊東マンショの人柄を褒め、秀吉に仕官するように勧めますが、伊東マンショはそれをあっさり断り、キリスト教信者として生きることを選びます。
 ヴァリニャーノの意図していた日本におけるイエズス会の拠点作りとその人材の養成という野望は、彼ら少年たちの余りの純真さのゆえに挫折します。伊東マンショたちは純真なキリスト教徒として世を捨てて、一個の信者としての生涯を選択します。ヴァリニャーノが期待していたように、世俗的な権力と張り合いながら超世俗的な権力を作り上げていくというような動きをしなかったのです。伊東マンショは、余りにも純心でありすぎたのです。彼は長崎の修練所で教職者として生涯を閉じたといいます。
 その後日本には、オランダという旧教徒勢力を駆逐していく新しい勢力が登場してきます。

 

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史跡物語―サムライ キリスト教に出会うの巻
 

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