Samurai World>史跡物語



第26回
日本近代国家の夜明け


写真は鹿児島県串木野市の羽島海岸、ここから英国に向けて薩摩藩の若き俊英17名がグラバーの手配した蒸気船に乗り込んで、英国へと旅立っていきます。

  1865年正月早々薩摩藩内から選抜した若き俊英たち15名に対して英国留学への藩命が下ります。
 当時の薩摩藩は、1863年に英国との間で世に言う《薩英戦争》を経験し、それまでの攘夷一辺倒から西洋先進国の技術を吸収し富国強兵へと藩論を急転回させていきます。それは先君島津斉彬の遺命として認識され、島津久光をはじめ下級志士たちを中心に日本の運命を左右する動きへと収斂していくことになります。
 そもそもヨーロッパ先進国の技術を積極的に取り入れて日本を大胆に変化させようとしていたのは蘭学好きな島津斉彬でした。しかし彼が1858年7月急死したことで、薩摩藩の文明開化の動きは中座。斉彬の父島津斉興によって斉彬の殖産興業政策はことごとく破棄されていきます。しかし歴史の流れはどう逆らおうが、決まっていたようで、その斉興も老齢のためまもなく死亡。跡を継いだ島津久光は異母兄島津斉彬の意思を受け継いでいきます。そしてその島津久光を支えていくことになったのが、それまでの保守的な門閥派の高級藩士たちではなく、斉彬の変革に期待を寄せていた大久保、西郷をはじめとする下級藩士たちです。
 彼らに新しい舞台を提供することになる大事件が1863年の《際英戦争》です。この経験によって、薩摩は目覚めます。それまでの攘夷から英国へと急接近していきます。
  新しい時代を見据えていた志士の中に五代才助と人物がいました。彼は後の大阪商工会初代会頭になる五代友厚です。彼は薩英戦争の時意図的に英国に捕虜となり、イギリスへ接近します。横浜へ拉致され、その後英国領事の周旋で解放され長崎へ向かいます。そこでグラバーと出会います。運命とも言うべき出会いです。
 当時のグラバーは、若きビジネスマンとしてだけでなく、野心をもった企業家でもあったようで、日本の変革に積極的に関与していきます。それが英国への密航を援助したり、武器を薩摩を中心とする西南雄藩に融通するという形として実行されます。五代はそのグラバーと出会ったことで、歴史の自然な流れに引き込まれるように、英国への薩摩藩士の留学、といっても当時は海外渡航は御法度で禁じられていましたから、密航という危険な計画を現実のものとしようとしていきます。
 五代の計画はしかし、薩摩で実現へ向けて藩の政策として採用されます。要点は、藩内の特産物を上海で売りさばき、その利益で製糖機械を購入し、それでもっとさらなる黒砂糖を生産し海外貿易で利潤を上げ、同時に留学生を海外に派遣し、殖産興業のベースとなる人材養成と大砲、銃、船舶、紡績機械など近代工業製品を購入し、新しい変革を実現していくというものです。
 五代の献策によって早速留学生の選別が行われます。人材は、薩摩藩に開設されていた洋学を教えていた《開成所》塾生の中から選ばれていきます。洋学とは、それまでの蘭学中心の学問から、英語学習も積極的に取り入れた学問所とでもよべばよいと思います。その洋学の英語教授の一人として招かれていた人物に、あの中浜万次郎がいました。このあたりのことは、2008年度のNHK大河ドラマ《篤姫》の中でも見られたことと思います。
 かくして慎重に選抜された俊英15名と随行員として発案者の五代才助、そして薩摩藩で欧米視察経験者でもあった松木弘安に、1865年正月明けに英国留学の藩命が正式に下ります。最年少は後にアメリカに渡り、農園王としてかの地で生涯を終えた長沢鼎こと磯永彦輔が当時13歳、また後に初代文部大臣となる沢井鉄馬こと森有礼などがおり、それぞれが新しい世界の中で、新しい生き方を模索していくことになります。
 一行は幕府の禁制を犯して密航するわけですから、あくまで甑島と奄美大島への出張という形で、羽島海岸から船出する手はずを整えます。羽島海岸は甑島へ渡海する港になっており、幕府の眼はごまかせると考えたのだろうと思います。さらに一人ひとりに藩主自ら偽名を授ける用意周到さです。磯永彦輔は生涯藩主から賜った偽名《長沢鼎》で通します。彼の中では、新しい《自分》が英国、アメリカという新世界で誕生していたから、藩主から授かった名前にこだわり続けた気もします。この羽島から船出するときは、すべての藩士が藩命という責務を背負い、眼前に広がる海原に吸い込まれていきます。しかしやがて一人ひとりの意識の中で、新しい夜明けがきたのではないでしょうか。ここ羽島の海岸の風に吹かれていると、ふとそんな思いが浮かんできました。

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