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第4回 足利将軍 石見に死す 



 昔の安芸国と石見国との国境に『天下墓』と呼ばれているユニークな墓がある。
 地元では、この墓は室町幕府第15代将軍足利義昭の墓として言い伝えられている。
 足利義昭と言えば、織田信長に京を追放され、諸国を放浪し、最後は中国の毛利氏を頼って福山の鞆の浦に身を寄せていた、室町幕府最後の将軍である。
 毛利輝元は、譜代家臣一同を鞆の浦に集め、衆議した結果、義昭を奉じて織田信長に対抗していくことに分を見いだし、毛利軍全軍を挙げて、東上の計画を実行するに及んだ。

 しかし、肝心の毛利氏が備中高松城攻防戦で豊臣秀吉に実質的に敗れ、講和を締結するに及んで、足利義昭の存在意義も消失した。もはや義昭は、毛利氏にとっては厄介者でしかなくなったのである。
 史実によれば、このあと大阪に戻り、わびしく生涯を閉じたことになっている。
 その義昭の墓がどうして、安芸と石見の国境の村にあるのか。

 まずは、この地方に伝わる伝承を紹介しよう。
 義昭は、毛利氏に見放されたあと、出雲の尼子氏を頼り、安芸から石見路を経て、出雲へ向かう途中、この村にて病となった。村の一角に智教寺を構え、この寺で過ごすこと数年、ついにこの地に生涯を終えたのである。村人は、義昭を哀れに思い、この地で荼毘に付し、丁重に埋葬した。これが『天下墓』である。
 とまあ、こんな史跡案内板が墓の前に書いてあるわけだが、美土里町史を読んでも、このような史実はとうてい信じがたいとちゃんと書き添えている。
 それでは、いったいぜんたいこの『天下墓』は誰の墓または供養塔なのか。
 それは、多分、足利直冬関係の武将たちの墓か供養塔であろう。

 ここで、足利直冬が登場するわけだが、知らない方のために簡単に紹介しておこう。
 足利直冬は、足利尊氏が白拍子に生ませた子と伝えられている。しかし足利尊氏には、鎌倉に北条一族の娘との間に嫡子千寿王がすでにいた。これが後の二代将軍義詮である。
 尊氏は、直冬のことをわが子としてなかなか認知しようとせず、それを哀れんだ尊氏の弟直義が養子にし、直義の子として受けいれた。 このような次第で、尊氏と直冬との間は、しっくりいくはずもなく、これが直冬の人生に暗く陰を落としていく。
 足利家の執事である高師直兄弟を間に、尊氏と直義との確執が表面化し、兄弟相争うようになると、直冬は当然、直義側にたち、高師直兄弟、尊氏との連合軍と激しく戦っていく。
  時代は南北朝の時代である。全国の武士たちが高師直兄弟と尊氏連合軍の北朝方と直義直冬連合軍の南朝方とに分れて、戦を交えた。
 特に直冬は、中国探題として中国地方に圧倒的な勢力を有しており、中国地方の有力領主たちを味方につけ、尊氏方に挑んでいた。
 しかし、台頭してきた周防の大内氏によって、石見地方を押さえられたり、幕府の中国地方の南朝方勢力を駆逐する政策によって、次第に追い詰められ、ついに直冬は室町幕府に降参する。二代将軍義詮のときである。
 幕府は直冬を許し、現在の島根県江津市にわずかばかりの給地を与えた。直冬は僧籍に入りその地で静かに生涯を終えたという。
 
 かくして、中国地方、特に安芸から石見にかけて、直冬があちこちで出没しているところから、この地方には足利氏ゆかりの伝承が言い伝えられている。そして、室町幕府最後の将軍義昭も、安芸の国に流れ着いたことから、安芸の国には、重ねて足利氏の伝承が出来上がる素地があると言える。
 この天下墓も、直冬ゆかりの言い伝えが、いつしか義昭と混同されていき、最後の将軍義昭の墓と言い伝えられるようになったのではないかと思われる。直冬にしろ、義昭にしろ、最後は哀れな末路をたどった武将で、しかもいずれも将軍と言われた武将であった。直冬は山名時氏によって京都上洛戦の総追捕史という南朝方の武将たちにしてみれば、将軍職に匹敵する飾りにされたわけである。

  名門足利家の哀れな将軍様に対する村人の哀愁が、このような墓を作り上げるに至ったのであろう。また広島県作木村には、足利義昭の弟の末裔であるという家系があるが、家系図を見せてもらえないので、直冬の末裔かどうかなんとも言えない。
 1441年嘉吉の乱で、将軍足利義教を殺害した赤松氏が、備中井原にいた足利直冬の孫を還俗させて、御旗にして諸国の大名に参戦を求めたことから、直冬の末裔も安芸から石見にかけて散在しているとしても不思議ではない。

 
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