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No.5 毛利隆元の墓所、いまだ知られず!! の巻 




 毛利隆元と言えば、毛利元就の嫡男で毛利家当主だった戦国武将である。しかし弟の元春や隆景の活躍の影に隠れて、戦国武将としてしてはいま一つ知られていない。 戦国時代の毛利家の華々しい歴史も、風化した江戸時代になると、 隆元が毛利家の家督をついで毛利家の当主であった事実すら一般に知られていない有様だったという。毛利元就から嫡孫の毛利輝元に家督が受け継がれていったように考えられていたということだ。 隆元がそんな影の薄い戦国武将に甘んじなければならなかった歴史的背景には、隆元自身の性格的なものがあろうが、もう一つの理由は、元就が中国平定を完成しないうちに、41歳の若さで急逝していったということであろう。しかも山陰の覇者尼子氏攻略の真っ最中のことである。念願の山陰と山陽の平定を完成させるのは、いまだ健在な父元就によってであった。隆元の存在感すら薄れてしまうのは、仕方ないことであったかもしれない。 ところで毛利隆元の墓所は、現在本拠の郡山城跡の中腹に立派な構えをしている。誰しもこれが毛利隆元の墓であると思っている。 確かにこれは毛利隆元の墓所であることは間違いないことなのだが、隆元の墓所は、実は他に2ヵ所もあって、後年それらの墓を整理して、元就や毛利氏の歴代墓所とともに郡山城へ移動させたものである。  



佐々部の蓮華寺跡の隆元の墓

 毛利隆元は、1563年現在の広島県高宮町佐々部で急逝する。享年41歳であったという。死因は不明。 念願の出雲の尼子氏攻略のため、毛利軍に合流しようと大友氏との前線から取って返し、出雲へ向かう途中、佐々部の蓮華寺というところに逗留し、ここで近辺の兵力を整え、出雲へ出陣するつもりだった。 たまたま縁続きになっていたことこともあってか、備後の国人領主和智氏の饗宴に招かれて和智氏の本拠南天山城へ出向く。そこで饗宴を受け、取り急ぎ佐々部に帰るが、帰路の途中から具合が悪くなり、翌日急逝したと言われている。 隆元の死因については、現在でも明確なことは解明されておらず、食中毒説というのが通説となっている。しかし当時、この死因については和智氏と隆元の側衆筆頭であった赤川元保とが計った毒殺説などが噂されたとみえ、元就も後年赤川元保、和智氏兄弟を殺している。 しかし元就は、赤川元保の家もその後再興させ、 和智氏の家も再興させていることから、両氏に対する元就の処置の真意は別のところにあったとも解釈できる。 隆元の遺骸は、宿舎であった蓮華寺で荼毘に付された。その火葬地の跡に建立されたのが、上記写真の蓮華寺跡にある隆元の墓である。 隆元がこの地で火葬に付され、そのままこの地に埋葬されたことは、当時の情勢から容易に推測できよう。郡山城へ移送し、悠長に葬式など営む状況ではなかったはずだ。毛利全軍挙げて、宿敵尼子氏攻撃のため、出雲に出陣している最中である。



美土里町の隆元墓所跡と伝えられる『もりさま』

 しかし、毛利隆元の墓が、後年ここからただちに郡山城の一族のもとへ移され、今日私たちが見学できる隆元の墓所となったのではなさそうである。郡山城山麓にある、毛利一族はじめ隆元の墓などは、実は明治維新による長州藩の勝利によってきれいに整えられたものと考えていい。 勝てば官軍で、明治維新を成功させた長州藩としては、自分たちの先祖の歴史を整えることが行われたようである。薩摩藩の場合も、鎌倉にある島津氏の先祖の墓などを調査したようである。現在の郡山城の毛利氏の墓関係も明治時代に大幅に手を加えられたようである。それ以前の墓がどうなっていたのか今となっては、確かなことはわからないだろう。

 実は、隆元の墓としてもう一つ言い伝えられている場所がある。高宮町の隣町に位置する美土里町である。 美土里町に北村という集落があって、ここに昔から地元では、『もりさん』と呼ばれている小高い丘があって、現在でも小さな祠とそれを守るかのように二本の大きなフクラシの木がある。 この地が毛利隆元の墓であったという伝説は、美土里町史に詳しく書いてある。 かいつまんで紹介すると、この地に5000石余りの領地を有していた毛利日向守と毛利飛騨守という人物が、佐々部にあった隆元の墓をこの地に移し、以来その子孫によって墓守がされたという。 この言い伝えは、江戸時代に編纂された芸藩通志や北村の庄屋が藩に書き出した文書にも記述があるという。 また島根県瑞穂町に所在した高善寺のふすまの裏張りに使われていた古記録の写しがあり、それによれば、長州へ移る際に、毛利輝元から飛騨守に寺を預けられたとの記録が見える。 飛騨守は長州へはついていかず、この地に帰農し土着したという。 美土里町北村の通称『もりさま』が隆元の墓であったという確かな証拠はなさそうであるが、関が原によって主をなくしたこの村の人々が、戦国時代の歴史を大切に守りつづけてきたことは確かであろう。

 
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