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No.6  厳島合戦、敗将最後の地 の巻



厳島原生林の中にたたずむ陶晴賢の自刃の碑 高安原陶晴賢戦死之所と刻んである。


 陶晴賢と言えば、毛利元就に厳島合戦で敗れた武将であるが、知名度はいま一つである。 戦国時代を代表する合戦の当事者であるにもかかわらず、毛利元就の巧みな謀だけがクローズアップされ過ぎて、陶晴賢など歴史のかなたに忘れられてしまっているようである。 確かに、元就などど比較すれば、武人としては勝れていても、思慮にかけるところがあったのであろう。 しかし、厳島合戦の勝敗を左右した村上水軍に対して、厳島での商人への課税を禁止し、大内氏の下に厳島の経済活動を取り込もうとしたあたりは、後年秀吉による海賊禁止令による統一国家への道のりを示唆していて、その経済的感覚は勝れていたと評価してもいいのでないかと思う。村上水軍のような統一権力になじまない勢力を規制するには、ただ時代が早過ぎたというしかあるまい。

 陶氏は、もともとは大内氏の氏族であり、周防の守護代として現在の新南陽市に所在する富田若山城を居城として大内氏の西部を統括する立場にあった。東部の内藤氏と大内氏を二分する重臣筆頭である。 晴賢の父、陶興房は、大内義興に従い、各地を転戦、めざましい軍功をたて、陶氏の勢力を隆盛させた。そのためか、陶晴賢のころには、大内義隆でさえ、陶晴賢には一目置いて、陶晴賢の顔色を窺う始末であったという。 このような大内氏の内部事情が極点に達し、1551年8月下旬本拠の富田若山城を発進して、山口の大内義隆を襲い、大内家の実権を牛耳ることになるのであるが、1555年10月1日、厳島合戦において、劣勢と見られていた毛利元就に壊滅され、厳島で最期を迎えることになる。 陶晴賢は、厳島の海岸線を岩国方面の大江浦に逃げていくが、大江浦に面した海岸には一隻の味方の船も見えず、さらに裏手の海岸線まで逃げたが、そこにも船影が見えなかったので、ついに命の尽きたことを悟り、山中に入り、そこで最期まで付き従ってきた部下と最期の杯を交わし、舞を舞い、陶晴賢とは乳兄弟で片時も側を離れることがなかった伊賀民部少輔が介錯したと伝えられている。享年35才。
 晴賢の首は、伊賀民部少輔が晴賢が着用していた朽葉の袷に包んで山中に隠した。伊賀民部少輔ら最期まで陶晴賢に付き従っていた近侍は首が敵方に見つからないように、陶晴賢の近くで互いに刺し違えて果てた。そのため戦いが終わって4日たっても陶晴賢の首は見つからなかった。 10月4日になり、陶晴賢の草履取り乙若という若者が山中の穴の中に隠れているところを発見され、命を助けてくれるなら、首の在りかを話そうと言って、そういう次第ではじめて陶晴賢の首が見つかったと言う。

 陶晴賢自刃の地は、昔から、二通りの説があり、ひとつは、大野浦に面した大江浦近くで自刃したという説と、さらに大江浦から山を越えて裏手の青海苔の浜まで出で、そこから山中に引き返し、そこで最期を迎えたと言う説。 陶晴賢の最期の様子は、この乙若という草履取りの少年が話したものが後世に伝わっていったものと考えられ、広島大学教授であった瀬川秀雄博士は、さまざまな情報を総合的に考慮し、青海苔浜から少し山中に入った高安原と呼ばれている場所を、陶晴賢最期の地と比定し、この地に『陶晴賢戦死之所』の碑を建立された。大正10年8月10日と刻んである。 写真が高安原の地に建立されている碑である。 近くを小川が流れ、ちょっとした台地となっている。現在は、青海苔浜へ通じる山道があるが、この台地はその山道からさらに山中へ入り込んだ所にあり、注意していないと見過ごしてしまう。  
 
 
 
 
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