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第7回  三隅兼連、極楽浄土に背を向けて死す 



 青く澄み切った日本海を右手に望みながら、国道9号線を島根から山口方面に南下していくと、三隅町という町を通過する。浜田市と益田市の中間あたりに位置する町である。
 この三隅町には、石見の大豪族益田氏の支族三隅氏が居城していた三隅城がある。その麓には菩提寺龍雲寺もある。
 三隅氏と益田氏は、本家と分家の間柄であって、鎌倉時代初期、益田兼高が現在の浜田から益田に本拠を移して益田氏を名乗るようになったが、兼高の次男兼信は、三隅に領地を与えられ、以後三隅氏を名乗るようになる。
 他に益田氏の支族としては、兼高の三男に始まる江津の福屋氏、兼高の孫の代から分かれた浜田の周布氏、三隅氏から分かれた永安氏などが有力な石見地方の豪族として成長していく。

 石見というのは、現在でも山村が多いが、これはこの地方特有の地理的環境がお互いの地域を険しい山々が隔てているからである。したがって益田氏の場合も、一族が広い地域に分散してしまうと、お互いが惣領家から独立した封建領主として成長するようなところがあったのである。
 益田と浜田の間は距離にして約60キロぐらいである。この両端に本家と分家が城を構えていたのであるから、自然と独立した一族という意識が芽生えてきてもおかしくないだろう。
 三隅氏は、たびたび本家の益田氏の居城七尾城を攻撃するほどの勢いもあったが、戦国時代末期には、ついに本家の益田藤兼によって城を囲まれ、腹を切らされるのである。三隅氏の最後である。
 
 そういう反骨感あふれる歴代三隅氏の中でもひときわ地元の人々に畏敬されている武将がいる。三隅氏四代三隅兼連である。
 写真はその三隅兼連のものであるが、この墓は実は東の方角、京都を向いている。それが兼連の遺言だったからである。普通浄土は西の方角にあると信じられていたので、墓は西向きにあるのが普通であるが、三隅兼連の墓は西とはほぼ反対の向き、京都の方角を向いているのである。
 この三隅兼連という武将の最高位の官職は多分石見守である。多分というのはそういう証拠がないからであるが、彼の発給した軍忠状には石見守の署名があるから、多分一時的にせよ石見守を名乗っていたことは明らかである。

 平安時代、石見の国司はもともと益田氏であり、武家政権なっても益田氏が一貫して石見地方の統領的立場であったわけだが、この三隅兼連は、そうした石見の盟主益田氏に対抗し、歴史の荒波の中で翻弄されていった孤独のサムライのような気がする。
 三隅兼連は、自分の墓を極楽浄土の方角ではなく、なぜ反対の京都に向けさせたのか。

 彼が本家益田氏から完全独立し、さらには益田氏を凌駕しようと考えていた頃、日本の歴史は鎌倉幕府が大きく崩壊しようとしていた時代だった。元寇による脅威は石見地方にも影響を与えた。鎌倉幕府は益田氏にも命じて日本海沿いに防塁を築かせた。今でもその跡が残っている。益田氏はさらに庶家の三隅氏、周布氏などにも防塁を築くよう命じる。三隅兼連も若い頃この命に従い三隅の海岸に防塁を築く。
 地方の豪族にとってこの負担は決して小さいものではなく、さらにこの労役が何らかの恩賞として返ってくるものでもなかった。このような鎌倉幕府への反感は全国の御家人や地方豪族の間には共通したものであったろうが、三隅兼連はそうした鎌倉幕府への強い不満と、さらには本家益田氏への反感とがミックスしたものとなったのかもしれない。
 彼の鎌倉幕府と本家益田氏への反感は、後醍醐天皇が討幕の御旗を掲げたとき、はっきりと具体的な行動へと昇華していくのである。
 1333年、隠岐を脱出した後醍醐天皇が伯耆国船上山において兵を募ったとき、三隅兼連の姿もそこにあったのである。石見からはせ参じた武将は、三隅兼連と佐波顕連のわずか2名であったという。三隅兼連は、この時後醍醐天皇に自分の命運をかけたのである。
 後醍醐天皇と行動を共にした三隅兼連は、いわゆる『建武の新政』が成功し、この年の六月入京する。しかし後醍醐天皇の新政はわずか2年ほどで破局を迎え、足利尊氏が政権を執るが、以後約60年間にわたる南北の抗争時代に入ることになる。
 この間も一貫して三隅兼連は南朝方の武将として、正確に言えば反武家方、反北朝方として石見地方に君臨するのである。
 京都での尊氏、高師直、師泰兄弟と足利直義党との抗争であるいわゆる「観応の擾乱」が始まると、直義の側に付いた直冬と高師直、師泰兄弟との抗争が始まる。直冬の勢力が無視できないほどのものになると、尊氏は直冬討伐を命じる。ここに尊氏、高師直、師泰兄弟と直義、直冬との抗争が始まることになる。

 直冬が尊氏討伐に乗り出すと、山陰、とくに石見地方の武将たちは直冬を支援した。尊氏は直冬討伐を高師泰に命じると、高師泰は直冬討伐に九州へ向かうも、後方支援している石見の武将たち、その中心的人物の三隅兼連を打たんとして、急遽進路を変更し石見に侵攻し、次々に南朝方の拠点を落とし、ついに三隅兼連の居城三隅城を囲む。しかし三隅兼連を支える三隅一族の結束は高くなかなか容易には落ちなかった。そうこうしているうちに、京都で直義が政権を奪取する事態が起こり、三隅城を囲んでいた高師泰は呼び戻されたので、三隅兼連は窮地を脱することができたのである。

 1352年直義が兄尊氏に鎌倉で毒殺されると、直冬の立場も危うくなった。 直冬は九州を追われて中国に入るが、この地方には以前から直冬を支援してくる武将たちがいたからであるが、その中でももっとも頼るべき武将が一貫して反尊氏方として態度を鮮明にしてきた三隅兼連だった。直冬は、この三隅兼連を頼って、三隅氏の南方の要害河内城に入城した。1354年のことである。直冬は、ここから山名時氏のいる伯耆へ至り、そのまま山陰道を進み、京都へ進撃するつりなのだ。 
 この年の5月ついに直冬は三隅兼連を中心とした山陰の武将たちに支えられて河内城を出立する。 そしてそのまま京都へ進撃し、父尊氏と戦うのである。しかし戦いは苦戦を強いられ、退却を余儀なくされる。 
 伯耆国船上山に後醍醐天皇のもとにはせ参じた日より一貫して反武家方として孤高に行動してきた三隅兼連は、この激戦の中でついに戦死する。齢60才になろうとしていた。
 兼連が息をひきとる間際に自分の墓は必ず東に向けて建立するように言い残したと伝えられている。後醍醐天皇とともに初めて入京した時から約20年の月日が流れていた。

 無念だったのか、充足感だったのか。日本海の海の音が聞こえきそうな正法寺の境内にある兼連の墓の前に立ち、彼の思いに馳せるとき、なにやら満足げな兼連の笑い声が聞こえてきそうな気がする。合掌。
 
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