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No.8 戦国の茶人、瀬戸内海に眠る の巻 



門山城跡を背後に 瀬戸内海を眺めている上田宗箇の墓


 世界遺産として知られている厳島神社から数キロほど南下した国道二号線沿いの丘の上に、上田宗箇の墓がある。墓といっても、そこには遺骨は埋められているわけではない。何もない、ただ印として松の木が植えられていただけの墓である。いまもその枯れた松とおぼしき幹だけが主の墓を物語っている。 上田宗箇いう人物は、茶道に関心のある方なら説明するまでも無いだろうが、世界的にも有名な上田宗箇流という茶道の開祖である。

 しかし、上田宗箇は、単なる茶人でない。れっきとした名だたる戦国武将である。その戦国武将の遺骨の無い墓がなぜ、この広島の地にあるのか。 上田宗箇は、上田重安と言って、先祖は現在の信州上田の地の在郷武士の家系の出身である。その後、尾張に移住し、その地で織田信長の側近であった丹羽長秀に仕えていたとしかわからない。 上田宗箇の父重之が上田宗箇10歳の時に亡くなってからは、祖父の重氏に可愛がられて養育された。祖父重氏は、上田宗箇を平穏な生涯を送れるようにとの願いから、僧籍に入れた。
 だが上田宗箇は、我慢できず、寺を飛び出し、家に帰った。祖父重氏は、上田宗箇を伴い、主君丹羽長秀の下に挨拶に行った。そのとき、丹羽長秀の目に宗箇の才能が目にかかり、即座に侍童として使えることとなる。 爾来上田宗箇は、丹羽長秀を父と思い、丹羽長秀が亡くなるまで近侍として仕えた。丹羽長秀の方も、上田宗箇の才能を高く評価していたようで、織田信長から丹羽長秀に伝えられる伝令をさらに伝える役として、上田宗箇を重要していたようである。
 安土城の築城総責任者として丹羽長秀が任命されると、昼夜たがわず主君織田信長から督励される度に、丹羽長秀は上田宗箇を安土城の現場へと走らせていたようである。後年、上田宗箇が、単なる茶人としてだけでなく、蜂須賀氏や浅野氏の庭園作りに関わるのも、丹羽長秀の下で多くの築城現場を経験してきたキャリアがあるからである。
 父のように慕い、仕えてきた丹羽長秀もついに1585年病死する。豊臣秀吉を終始支えてきた丹羽長秀と、豊臣秀吉の親密な関係から、主君長秀が死亡すると、豊臣秀吉の近侍として仕えていくことになる。秀吉は、上田宗箇に丹羽長秀の領地の中から、越前に1万石を与える。上田宗箇22歳のときである。 これ以降、関ケ原で豊臣方として敗戦するまで、上田宗箇は、豊臣陣営の有力な武将として生きていくことになる。
 秀吉が上田宗箇をかなり重要視していた証拠として、秀吉の正室ねねの一族杉原家の娘を嫁がせ、秀吉じきじき媒酌していることからもわかる。これは上田宗箇を秀吉の一族として迎えたことを意味している。そしてこの婚姻が後年上田宗箇の人生を大きく変えていくことになる。上田宗箇27歳のときである。 また1594年には秀吉より豊臣の姓を賜り、従五位下の官位も与えられている。 上田宗箇と茶道の出会いは、この秀吉の近侍時代である。宗箇がどういう動機で茶道の道に入っていったかは定かではないが、秀吉の近侍にいる立場としては自然な成り行きだったのかも知れない。上田宗箇は利休の弟子となり、茶の道にのめり込んでいく。

 しかしそんな上田宗箇にも人生最大の危機が訪れる。関ケ原の戦いである。石田光成の挙兵に呼応した丹羽長秀の嫡子長重が西軍に荷担したため、それを助けるべく上田宗箇も西軍に荷担する運命となる。しかし直接合戦には間に合わず、西軍の敗北を知ると、直ちに軍を解き、摂津兵庫の杉原長房の地に隠棲し、この時宗箇と号する。それまでの彼は、武将上田重安である。



広島浅野藩の時代、 家老として取り組んだ庭園



 摂津に隠棲していたことを知った旧知の秀吉の家臣蜂須賀家政に招かれ、徳島へと渡る。 蜂須賀氏の下では、厚遇を受け、それに応える形で、庭園千秋閣を作庭したり、家臣たちに茶道や礼節などを教導したりして平穏な日々が3年ほど続く。
 そんな折、紀州藩の浅野氏から誘いがかかる。この浅野氏からの招聘の裏には実は、先の婚姻関係があったと思われる。つまり、浅野長政の正室は秀吉の正室ねねの一族から嫁いでいるのである。そして上田宗箇の正室もねねの一族から嫁いでいるわけである。つまり浅野長政の夫人と上田宗箇の夫人は、いずれも秀吉の正室ねねの一族で親族であり、夫人同士の通信があつたと推測される。長政は断る上田宗箇のもとへ度々使者を使わしたので、ついに上田宗箇のほうも紀州行きを承諾するのである。一万石の重臣待遇である。
 しかし紀州で上田宗箇を待っていたものは、家臣たちの冷たい冷笑だったようである。戦国時代の目覚しい上田宗箇の戦歴を知らない、平安な時代の紀州藩の家臣たちの中には、上田宗箇のことを『一万石の茶坊主』などと阿諛するものも跡を絶たなかったと言う。 そんな環境の中に置かれていることを知った長政は、上田宗箇に家臣たちの前で、刀を贈り、『家中の批判などには耳を貸さず、いざというきとには、しっかり勤めてもらいたい』と励ましたとも言う。
 冷たい視線の中にさらされていた紀州時代の上田宗箇に一つの転機が訪れる。大阪の陣である。最初の夏の陣では、上田宗箇は三番隊を命じられる。上田宗箇にしてみれば、これは屈辱だったようで、浅野藩を出奔し、再び隠棲した。浅野家を継いでいた当主の長晟は、驚いて使者を使わし翻意を促すこと数たび、やっとのことで帰藩した。
 そして大阪冬の陣。この軍で、上田宗箇は、豊臣方の三勇士と称されていた豪傑の一人塙團右エ門を一番槍で討ち取る武勲を立て、徳川家康に西軍に荷担した罪を許されたと言う。このことがきっかけとなり、紀州藩でのそれまでの『一万石の茶坊主』は家臣たちに尊敬されるようになり、上田宗箇の浅野藩での不動の地位が確立するのである。
 浅野長晟が紀州和歌山から安芸広島へ移封されたのに伴い、上田宗箇も安芸広島に移る。安芸での上田宗箇の給地ははじめ一万石、後に加増されて一万七千石の大名並みの扱いであった。安芸国の西部、現在の広島県大竹市を中心とする一円の村々が彼の領土であった。大竹市には、福島正則が築城した亀居城があり、ここに西の毛利氏に対する備えとして上田宗箇を配したわけである。  しかし上田宗箇自身は、広島城下に居住し、日夜政務や家臣たちへの茶道、礼節の指導などに励む一方、浅野氏の庭園として『縮景園』を作庭した。 晩年は、隠棲し、悠悠自適の茶道三昧だったようである。そんな彼の遺言は、自分の遺骸は埋葬せず、焼いたあとその灰を瀬戸内海に流してくれというものだったと言う。そしてその墓には松の木が植えられたと言う。今でも枯れたと思われる幹だけが残っている。その奥には、夫人の墓が寄り添うように並んでいる。 激動の戦国時代を生きてきた武将上田重安こと上田宗箇は、今静かに瀬戸内の潮の流れに身をゆだねている。この静かな海の中に溶け込んでいくことで、浮世の無常を超えることができたのだろうか。
 
 
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