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No.9  山陰の覇者、上月城の露と消える 





   現在の兵庫県上月町に千種川を見下ろすかのように静かに上月城跡はある。1578年3月毛利軍は、6万もの軍勢で十重二十重にもこの城を取り囲んだ。世に言う毛利軍と織田軍との上月城攻防戦である。  囲まれたのは、尼子勝久、山中鹿介主従である。  

 ところで、尼子氏と言えば、元就によって月山富田城を落とされて、最後の当主尼子義久三兄弟は、安芸の国へ護送され、名実ともに終わりを告げていたと思われている方が多いかも知れない。しかし尼子氏はなかなかしぶとく生き残っていたのである。  尼子勝久というのは、尼子国久の孫である。国久と言えば、尼子新宮党と言われ、尼子軍団の中核的軍団であった。元就は、厳島合戦に臨むにあたって、背後の尼子氏の力を恐れ、謀略を使って、当時の当主晴久に国久一族の新宮党を打たせた。この時、国久の息子誠久の三男で、まだ乳飲み子であった勝久こと孫四郎は、密かに助けられていたのである。小早川重遠という武将によって安芸吉田に連れていかれ、さらに備後の寺で養育され、その後京都の東福寺の僧となっていたのである。  尼子義久兄弟が元就に下ると、当然山中鹿介家臣等は、次の日から浪人の身となったわけだが、野心家の山中鹿介は、京へ上り尼子再起の機会をうかがっていたのである。 そんな鹿介が目を付けたのが、東福寺の僧になっていた勝久であった。当時京には、かつての尼子氏の家臣で浪人していた武将たちが、徘徊していたようで、鹿介は昔の仲間たちを募り、勝久に志を告げると、勝久の方も喜んで尼子氏再興に意気投合した。  

 しかし、彼らの野望は、日の出の勢いであった当時の毛利軍の前では、たやすいことでなく、旧国出雲へ乗り込んだものの、負けを知らない天才的武将吉川元春の前に、一勝もてぎず敗退していた。挙句の果てには、鹿介は、末石城(鳥取県大山町)を囲まれ、ついに捕らわれてしまう。この時、元春は生かしおいてはまずいというので、抹殺することにしたが、宍戸隆家と口羽通良がどうしても生かしておいたほうがよいということで、両名にお預けとなったのである。  ところが、この鹿介という武将、なかなかしぶとい人間だったようで、尾高城に幽閉されたものの、ある晩赤痢にかかったふりをして厠に通うこと数百回、朝方にはさすがの警護も油断してと見た隙に、厠の窓からすり抜けて、一目散に大山へ、そして美作を目指して逃走したのである。美作を目指したのは、多分この地がかつての鹿介の領地だったこともあろう。その証拠に、鹿介は、このあたりの一揆をあちこちで募っては、ゲリラ戦をしているのである。勝久の方も、宍道湖からさらに隠岐へ逃れ、京へと逃れていった。これが勝久、鹿介コンビの一回目の挑戦であった。  

 第二回目の挑戦は、単独では無理とみたか、明智光秀を介して織田信長に謁見し、織田信長の中国制覇に参加することで、出雲の旧国を獲得する計画を立てた。明智光秀の配下として、山陰方面、特に鳥取の切り崩しの尖兵になるわけである。山名豊国の鳥取城を目指した。当初豊国は、勝久らと戦う意思はなく、むしろ好意的で援助したが、元春、隆景の毛利軍が鳥取に着陣する段になると、今度は毛利に寝返ってしまった。勝久らは、若桜鬼が城に立てこもって抗戦していたが、分がないとみると、とっとと因幡から敗退していった。これが勝久、鹿介コンビの第二回目の挑戦である。  

 三度目の挑戦が、冒頭で触れた上月城である。 勝久、鹿介らは、山陰方面からの出雲入りを吉川元春にさえぎられ、無理と見たのか、今度は山陽方面からの出雲入りを試みた。山陽方面は、小早川隆景が担当している。吉川元春よりは戦いやすい相手とみたのか。  それもあろうが、鹿介は明智光秀よりは、豊臣秀吉の尖兵として動くことに分があると見たのではないだろうか。埒のあかない上司よりは、才能あふれるやり手の上司の下に走りたがるのは、今も昔も同じだ。 当主は一応勝久だが、作戦はほとんど鹿介が指揮していた。鹿介の腹は、播磨から美作を通り、出雲へ入るというルートであったろう。彼が美作にこだわるのは、先に説明したとおりである。  
 
 その播磨で目をつけたのが、宇喜田直家の配下にあった上月城である。当時上月城には直家の家臣真壁彦四郎という武将が在城していたが、鹿介らの約2000の軍の前に、とっとと城を捨てて逃げてしまった。こうして城主の居なくなった上月城に難なく入ることになるのである。しかし、宇喜田直家の出陣をきいて、上月城の防備体制が不十分だったため、勝久、鹿介らはいったん城を出で摂津に避難した。  その後、直家はこの城に上月十郎を城番として入れた。このあたりから、悲惨な惨劇が始まっていくことになる。 播磨に進軍していた秀吉は、ただちに上月城を攻め落としにかかった。この時秀吉のやった戦後処理は、なにやら秀吉の人間性を見る思いがしてくる。秀吉は、生け捕った城兵すべてに蓑笠をつけさせ、これに火をつけたいう。城兵らは踊り狂いながら焼き殺されていったという。
 
 今でも、上月城跡山麓に上月氏を供養する碑が建立されているが、あまり訪れる人もないようである。  上月城の処理をめぐって、尼子氏らの間で意見が分かれたという。織田信長に謁見したとき、その立ち振る舞いがりっぱであると賞賛された尼子氏の重臣に立原久綱という武将がいるが、立原は、上月城に入ることを止めるよう勝久に進言したと言う。理由は、まずこの城自体が防備堅固な城でないこと、将来宇喜田直家、毛利軍の包囲にさらされていくことは明らかで、わさわざ危険きわまりない渦中に飛び込んでいくことはないというものである。  それに対して、鹿介の言い分は、そういう危険な城であるからこそ、手柄を立てやすく、褒美として出雲一国の獲得も現実性が出てくるし、秀吉や信長がバックにいれば、毛利など敵ではないというものだった。  結局勝久は、鹿介の案を採用した。もっともこれまでの経緯からして鹿介が中心になっていたから、この時も鹿介の言うがままに従ったというのが真実のところだろう。 この時が、勝久の運命の瞬間だったのだ。  
 かくして、勝久、鹿介、立原久綱ら主だった尼子の旧家臣ら約2500は、上月城に入城した。  対して、毛利は、今度こそは尼子の息の根を止めようと、10万余の大軍を率いて上月城を目指した。この上月城攻防戦の時の毛利軍の勢いが、毛利軍最高の時である。 毛利輝元は、備中松山城に本陣を置き、先陣には吉川元春、小早川隆景が陣を構えた。  信長は、嫡子信忠を救援に向かわせ、秀吉もすぐさま上月城救援に駆けつけたが、毛利軍のあまりの防護の堅さに舌を巻いたという。 毛利軍の持久戦の前になす術もなくいたずらに時が流れ、信長は三木城攻略に全軍を投入することを指示し、かくして上月城は信長に見捨てられる。 ここにきて如何ともしがたく、勝久には降伏するしか道はなく、勝久、弟の氏久、重臣の神西、加藤の切腹を条件に城兵を助けることで講和する。
 勝久は、7月3日鹿介ら家臣等と最期の盃を交わし、腹十文字にかき切った。家臣池田久規が介錯したという。


 
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