Samurai World>サムライたちの墓>中国地方編



尼子久幸―広島県安芸高田市

 
 写真は尼子久幸の墓です。
 尼子久幸(尼子義勝とも)は尼子経久の弟にあたります。その久幸の墓がどうして安芸の吉田にあるのか。それは、久幸が毛利元就の本拠地吉田にて戦死したからです。
 
毛利元就が尼子氏から離反し大内氏についたため、尼子氏は毛利元就の本拠吉田の郡山城攻めを敢行します。しかし、この戦、はじめから経久、そして久幸は、元就の侮りがたい知略からして敗れる可能性もあるので出陣は思いとどまる様に晴久に忠告、しかし若き晴久は忠告を耳にせず、敢えて安芸へ出陣。
 この戦での元就の住民と一丸となった籠城戦は功を奏し、尼子氏は戦果をあげることもなく、いたずらに時を浪費するのみとなります。

 郡山合戦の最後の決戦舞台となったのは、尼子氏が本陣を敷いていた青三井山です。これを背後から大内氏の援軍陶隆房と前方から毛利氏とで挟み撃ちにする作戦を敢行。これまでと覚悟を決めた尼子久幸は、躊躇する味方の兵500騎あまりを率いて敵陣に突入、当主晴久を逃がすための玉砕でした。普段から思慮分別があり、慎重が身上のために周囲のものから《下野守比丘尼》と呼ばれていた久幸でしたが、いざという時は、さすがに老練な武将の行動でした。
 毛利方が本陣に突入したときには、尼子軍の本体は逃走したあとで、久幸の首を出雲へ持って帰るはずだったのか、首桶に入れたまま、現場に放置してしてあったと『陰徳太平記』は書いています。
 
関連情報
 
inserted by FC2 system