サムライたちの墓>
尼子興久―島根県安来市(旧広瀬町)

尼子興久の墓は、月山富田城の麓にひっそりと隠れるようにあります。気をつけて探さなければ見つからないような按配です。
 尼子興久の墓が隠されているかのようにあるのには、理由があります。
  尼子興久は尼子経久の三男です。嫡男は政久といって若くして戦死。次男は《新宮党》として知られる国久。そして三男が興久になります。
  尼子興久は父経久から与えられている三千貫ほどの所領にいたく不満を抱いていたらしく、1532年に父に対して弓を引きます。しかし経久の弟で当時政久の嫡男で後の尼子当主になる晴久の後見をしていた義勝に逆に攻められ、備後の山内氏をたよって落ち延びます。
 山内氏は現在の庄原市一円を領有していた備後随一の領主です。当時の当主山内直通の妹が尼子興久の妻でした。その縁を頼って山内氏の甲山城に逃げ込んで、しばらくは、山内氏に庇護されていますが、尼子氏全盛時代の経久と本格的に事を構えることなど直通にはなくなりかけていた頃、興久は身柄の引渡しに対する圧力を感じて、自ら腹を切ります。
 山内直通はすぐに興久の首を月山富田城に送ります。経久は一番かわいがっていた三男の興久の変わり果てた姿をみて、寝込んでしまったと伝えられています。
 興久の反乱の真相は、単なる所領への不満だけではなく、晴久とその周囲にいる重臣たちと尼子氏の庶子たちとの内部対立の現われと見たほうがよかろうと思います。《新宮党》の国久ものちのち毛利元就の策略に乗せられて、晴久から打たれてしまいます。尼子氏は毛利氏のように兄弟、親族が一致団結できなかったところに、滅亡への路があったと言えます。

 
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