サムライたちの墓>
尼子晴久―島根県安来市(旧広瀬町)

尼子晴久は尼子経久の孫にあたりますが、経久亡き後の尼子氏を継いで山陰における尼子氏の勢力の保持に努めました。尼子晴久が経久亡き後、尼子家当主を受け継がなくてはならなかった事情は、経久の嫡男政久が1518年戦場で流れ矢に当たり死亡してしまったので、孫に当たる晴久が次の尼子家当主となるわけです。1537年に経久から家督を譲られ、経久の後見を得ながら近辺の領土拡張に励みますが、1540年から1541年にかけての毛利元就の郡山城攻略に大敗して、安芸の毛利元就と山陰の覇者尼子氏との力関係が崩れかけていきます。もともとこの遠征は、祖父経久一同の反対を押し切って晴久の強行で行われたところがあり、この戦いに失敗したことは、祖父経久と晴久との武人としての格の違いを如実に毛利元就はじめ、尼子氏に敵対する武将たちに見せ付けることになります。これ以降尼子氏の求心力は衰え始めていきます。
 この戦いの翌年早速尼子氏の弱体をついて、大内氏の出雲遠征が実行されるわけですが、このときはいまだ祖父経久が存命で、得意の謀略で大内氏の攻撃を跳ね返しています。この出雲遠征の大内氏の敗退が、今度は大内氏の滅亡への伏線となり、最終的には毛利元就の登場を用意する結果となってしまったことは、歴史の皮肉と言えます。
 しかし祖父経久が築いた尼子家の土台はそんなに急激に崩れることはなく、足利将軍から山陰山陽8カ国の守護職を拝命するほどの余命は持ちながら得ています。そんな尼子氏を内から外から着実に締め上げていったのは、他ならぬ毛利元就でした。
 内からは、尼子の精鋭部隊として知られていた経久の弟率いる国久の《新宮党》を謀略によって内部粛清と言う形で葬り去らせ、外からは、小早川家、吉川家と安芸国の有力豪族を取り込み毛利家の勢力を拡大して、軍事的にも尼子氏に対抗し得る勢力を拡大していきます。そして大内義隆を滅ぼした陶賢晴を1555年《厳島の戦い》で全滅させると、ついに長年の宿敵尼子氏を葬り去るべく出雲へと軍を向けます。
 毛利氏の攻略は1558年頃から始まりますが、元就が月山富田城攻撃のため出雲の地に陣を構えたのは1562年。いよいよ本格的な城への攻撃が開始されようとする中で、尼子晴久はこの世を去ります。後に残された義久がついに月山富田城を降伏開城するのが1566年11月ですから、月山富田城という城がいかに難攻不落の城であったかが推測されます。
 尼子晴久の墓は、その月山富田城の城跡にひとり寂しくたたずんでいます。

 
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