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尼子経久   島根県安来市広瀬


尼子経久と言えば、下克上によってのし上がった戦国大名の代表的な武将でしょうか。
 尼子氏のルーツは京極氏の分流で、近江の尼子の地に由来しているのですが、京極氏は佐々木源氏の分流ですので、佐々木源氏の流れを汲む名門と言うことになります。
 尼子氏が出雲の地に基盤を持つようになったのは、京極氏の守護代としてこの地に赴任してきたことに始まります。持久、清定、そして経久と出雲の守護代職が世襲されていきますが、清定の代に出雲の実質的支配を手中にして、次の尼子経久がついに戦国大名として山陰の覇者として約60年間にわたる尼子全盛期を創生するのです。全盛期の尼子氏は出雲・石見・隠岐・安芸・備前・備中・備後・播磨・美作・因幡・伯耆の11ヵ国を支配するようになります。
 しかし、そのような尼子経久の黄金時代も、始まりは、順風満帆というわけではなかったわけで、守護代職を本家京極氏から剥奪され、月山富田城から追放されてしまう、苦い経験を若い時代経験しています。しかしそのまま終わらないところが、只者ではなかった人間の証です。月山富田城を追放された尼子経久は、妻の実家である真木氏に身を寄せていただろううと推測されています。この真木氏というのは、奥出雲地方の製鉄を抑えている豪族であったようで、この製鉄産業との結びつきが、尼子経久のその後の飛躍の原動力とも考えられます。尼子経久が月山富田城をわずか80人くらいで奪回する時、働いた《ごま党》一味がいますが、こういう人々は、間違いなく《サンカ》と呼ばれる山を生業にしている人々の流れであろうことは推測に難くないわけです。尼子経久とこういう人々の接点は、妻方の出身地である奥出雲地方の製鉄部族真木氏あたりだろうと思います。
  尼子経久が月山富田城奪回に成功するのが1486年の正月です。正月の行事として、当時としては芸人を城の中に入れ、祝う風習を逆手にとって、《ごま党》一味を芸人として正月未明に城内に入れることに成功。油断している隙に中の一味と呼応して襲撃します。
 1508年に出雲守護の京極政経が亡くなると、出雲に対する守護職の実質的支配が終焉したような状態になり、その後は破竹の勢いで、尼子経久は周辺国へ支配を浸透させていきます。
 不動の戦国大名にのし上がった尼子経久ですが、家政的には不運続きで、このことが尼子氏の没落を早めたことは否定できないことです。1518年出雲の阿用の城攻めをしている際、将来を渇望されていた嫡男の政久が流れ矢に当たって死亡するという悲劇が起こります。さらに、三男の興久が父の所領相続に不満を抱き、反乱を起こし、追放。妻の実家である備後の有力豪族山内家で、自害。その首が尼子経久のところに送り届けられ、首実験をした経久は、号泣し一気に老け込んだと伝えられています。
 それは、山陰の覇者として歴史の中に一時代を刻んだ戦国武将の、影の部分だろうと思います。孫の晴久には覇者としての資質の欠如を見抜き、毛利元就の台頭を危惧しながら1541年11月84歳の天寿を全うして月山富田城で死亡。毛利元就が難攻不落の月山富田城を落とすのが、それからちょうど25年後の11月。

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