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尼子義久の墓



尼子義久の終焉の地を訪れたのは青い空がすがすがしく広がる秋の日でした。日本海の紺碧の海と合い重なって、こんなにもすがすがしい隠遁の地で晩年をどんな思いで過ごして行ったことだろうか。 山陰の覇者の身から一転して流浪の武士へ転落。しかし実際には毛利氏によってこの地で約千石の給地を賜っていたと言いますから、財政難に苦しんでいた当時の長州毛利藩にあって格別な待遇と言えます。
 尼子義久は、山陰の覇者となって山陰から山陽にかけての中国地方を制圧した尼子経久の曾孫にあたります。父晴久の代まではまだ出雲の守護としての威風を誇っていたわけですが、義久の代になると、毛利元就の台頭によって、さすがの月山富田城も落城します。1566年11
月28日のことです。義久は毛利元就の前に謁し、名門尼子ということで元就は助命します。義久、倫久、秀久三兄弟は、現在の出雲市まで家臣、夫人と同行を許されますが、その地が主従永遠の別れの地となります。夫人の同行も許されず、夫人はその地の寺に入り主人を思いながら生涯を過ごしたと伝えられています。
 尼子三兄弟はそこから安芸の向原というところに幽閉され毛利氏の厳重な監視下に置かれます。その跡は現在でも残されています。毛利元就紀行に掲載してありますのでそちらもご覧下さい。
 関が原の戦いに負けて、長州、周防二カ国に減封された毛利氏は、山陽道に城を構えることも許されず、僻地の萩の地に城を構えます。義久隠遁の地は、その萩から日本海の海を眺めながら、16キロほど北上したところに位置します。義久はこの地で1610年に亡くなっています。その地と接する藩が津和野藩になりますが、亀井氏が鳥取の鹿野からこの地に転封になるのが1617年。亀井氏は尼子氏のかつての重臣です。もし義久生前に亀井氏が津和野に転封してきていたとすれば、義久にはどんな思いがよぎったのでしょうか。義久はこの地で、佐々木氏の姓にしていますが、これは尼子氏が元々佐々木源氏の流れを汲む佐々木氏だからです。義久の最後のプライドだったように感じます。



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