サムライたちの墓>
江良弾正―山口県都濃町

写真は沼城の城主の墓となっています。沼城は周防中部要の城砦で、三方を沼に囲まれていたために《沼城》と呼ばれ、堅牢な城として知られていました。
 毛利氏が周防攻略にかかり、まず倉掛城を落としますが、次に毛利軍の前に立ちはだかっていたのが、この沼城でした。周囲が田んぼに囲まれた中にポツンと浮かんでいるようにしか見えない標高30メートル足らずの城砦である。しかしこの城が城砦と呼ばれていたのにはわけがあり、三方を湿地に囲まれ なかなか用意に落ちない城でした。毛利軍の攻撃に二度までも持ちこたえています。
 この城がなかなか落ちないことが周囲の湿地帯にあることを見抜いた毛利元就は、沼の上に《むしろ》を敷き詰めさせその上をつたって、さらに鉄砲を撃ちかけながら城に迫ります。さすがの沼城の城兵もこれには士気喪失で、ついに総大将の山崎興盛が切腹。ついに城は落城。毛利軍は次の標的陶長房の本拠地若山城攻撃へ向かっていきます。この城の攻防戦で毛利軍が始めて鉄砲を使用したということになってます。
 この沼城には山崎興盛が総大将、城主は江良弾正というような言い伝えになっていて、城の記録ははっきりしないようです。山崎興盛が自刃した場所は 現在都濃高校のグランドが見える一角にあります。

関連情報 古城紀行の沼城

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