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樺山久高  鹿児島県日置市


写真は日置市の伊作島津氏の菩提寺多宝寺跡に残されている樺山久高夫妻の墓です。
樺山氏のルーツは、島津氏第四代忠宗の代五子、資久に始まるとされています。
初代資久が現在の宮崎県諸県郡三股町付近の樺山に居を定めたところから、樺山氏と名乗るようになったとされます。
 樺山久高は樺山氏代11代にあたります。1560年生まれ。1634年伊作で死亡。
志布志、伊作、出水の地頭職を賜り、その後藺牟田に領地を宛がわれ、一族家臣をこの地に移し、幕末までこの地の地頭としてあたります。
 樺山久高の事跡として最大のものは、世に言う《琉球征伐》になろうかと思います。
《琉球征伐》とは、1609年、島津氏約三千の兵で大島、琉球を征伐、島津氏の領土に実質的に組み込んだ軍事行動のことをさしています。
 そもそも、この《琉球征伐》ははじめは《大島計略計画》として島津氏によって計画されていたもので、徳川幕府への聘礼問題ならびに日明交易再開交渉を琉球側に決断させる手段として練られたものであったようです。当時の奄美群島は薩摩の支配圏ではなく琉球支配圏に属していて、琉球の一角である奄美大島を侵略することで、間接的に琉球本国への威嚇としたかったようです。
 しかし、当時の島津氏の内部では、家督をめぐって義久と義弘とその息子忠恒(のちの家久)と、その支持者たちの間で確執があり、財政難から対外的出兵に慎重な義久と徳川家康の意向を受けて島津氏当主としての権力を確立したい家久派との間で議論が煮詰まらないままに日延べになっていました。 
 ところが、1608年には幕府からの琉球への聘礼督促を命じるにいたり、具体的に琉球出兵の段取りに至ります。
 1609年3月に現在の山側港に薩摩各地から総勢約三千の兵が集まり、総大将に樺山久高、副将に平田増宗が指名され、島津義弘、家久が見送る中、約百隻の船が大島を目指して出向していったと伝えられています。
 樺山久高は義弘、家久の意向をもった武将、対する平田増宗は義久の家老を勤めた武将でこちらは義久の意向をもった武将です。琉球出兵の軍団編成は、鹿児島方が家久の軍、加治木方が義弘の軍、国分方が義久の軍と明確に派閥が分かれています。そのような混成軍は当時の島津氏の権力の分散を如実に反映しているわけで、この琉球出兵を通じて義久派に対して、義弘、家久ラインの権力確立という意味合いもあったことは、この人事でも読取れます。のちに平田増宗が後年、逆心ありとの疑いで義弘の命で暗殺されていることは、その傍証と言えます。


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