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樺山主税の墓   鹿児島県薩摩川内市


樺山主税は薩摩藩藺牟田の領主で、樺山家というのは、島津氏一門四家に次ぐ一所持家格の家柄で、もともとは島津氏から分かれた島津氏の一族です。
 彼の名が歴史に記されることになったのは、世に言う《近思録崩れ》のためです。
 この《近思録崩れ》という事件は、19世紀初頭に薩摩藩内で起きた大粛清のことで、中心人物の樺山主税、秩父季保をはじめ総勢百名を超えるものが処分された事件です。
  《近思録崩れ》がなぜ起こったかについて、簡単に説明しておきたいと思います。
 事の始まりは、島津第25代当主島津重豪が当主の座を退いて息子の斉宣に家督を譲っても、藩政の実権は掌握し続けていたのですが、当主になった斉宣としては面白かろうはずがありません。藩主斉宣は自分の考えで藩政を執りたいと考えるようになったのか、1805年ごろから、それまでの重豪の息のかかった役人たちを次々に罷免し、自分の考えに共感してくれる人物たちを藩の主要ポストにつけさせていきます。彼の採用した人物たちのほとんどが《近思録》を思想の支柱にしていたので、斉宣を中心とする一派を近思録派と呼んでいます。そしてその斉宣一派の頭目として一所持家格の樺山主税が藩主斉宣と意気投合し、樺山の推薦で秩父季保が抜擢され、両者ともすぐに家老に取り立てられます。そして藩校造志館書役の木藤武清の弟子たちを中心に、《近思録》輪読会が結成され、重豪が推進してきた藩政改革に反旗を翻し始めていくのです。
 ところが、江戸で隠居している重豪は、薩摩国内の動きを、自分の改革に対する反動として捉え、1808年についに、斉宣一派に対する反撃を開始します。重豪は藩主斉宣の動きに対して先手を打ち、十一代将軍徳川家斉の岳父である立場を大いに利用し、公儀からの圧力を使ったようで、家老樺山主税と秩父季保の罷免を有無を言わさず承諾させ、両名はじめ13名を切腹、遠島、蟄居など総勢百名を超える粛清によって、藩政から排除し、再び重豪の息のかかった人物たちを藩政に復帰させます。この一連の事件のことを世に言う《近思録崩れ》とか文化年間におきたので《文化朋党崩れ》とも言います。
 
 結局この事件は、島津重豪が推進した薩摩藩始まって以来の大改革に対して、薩摩藩内の権力闘争であったと考えられます。島津重豪はわずか10歳にして島津家の家督を受け継いでから89歳で死ぬまで、長く薩摩の藩政を牛耳ってきた殿様で、薩摩藩を一介の田舎大名の藩から江戸や京の文化レベルに開花させようとさまざまな刷新を敢行した殿様でした。、江戸で育った重豪にしてみれば、薩摩藩の閉鎖的な伝統のままに生きていた薩摩のサムライどもは、未開人のような有様であったろうと思われますが、それでは将軍の岳父たるもののステータスとしては、ふさわしくなかったのでしょう。京から芸子を呼んできたり、花火、船遊びを奨励したり、芝居を見せたり、商人を呼び込み、勃興していた経済活動の導入するなど、一連の文明開化をやりますが、薩摩藩内独特の郷士制度を支えていた農本主義から脱することができない普通の薩摩人とのあいだに確執が生まれたといえます。
 当時の日本全国の藩がそうであったように、土地に経済的基盤を置く封建制度は、商品経済の中に飲み込まれつつあったわけです。島津重豪はそのような資本経済勃興期の中で藩主として、時代の動きを察知し、遅れた薩摩藩を改革しようとしていたのだろうと思われます。しかしそういう貨幣中心へシフトしていく中では、官僚化したサムライたちの退廃が起こるもの無理からぬことで、それは田沼意次とそれに対するアンチテーゼとしての松平定信という組み合わせとまったく同じ図式が、この薩摩藩内の事件にも当てはまるような気がします。
  幕府中央でも保守的な松平定信の政治は失敗していくわけですが、薩摩でも保守としての《近思録》一派が敗れ、積極改革派、商資本容認派が政権を取り、討幕へと薩摩を推進していくエネルギーが蓄えられていくことになったということです。そしてサムライ自身が否定される時代へと、時代は動いていくことになります。


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