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懐良親王の墓  熊本県八代市


懐良親王は、後醍醐天皇の第16番目の皇子で、後村上天皇は兄に当たります。
後醍醐天皇の南朝は足利尊氏に京都を占領され、着々と武家政権の基礎固めを置くなっていたので、その対抗上吉野に開かれます。
 後醍醐天皇は意志の強い人物だったらしく、足利幕府に対してあくまで武力闘争を続けようとします。全国各地に皇子を分散させ、地方の反足利勢力を結集して京都に攻め上ろうという作戦を取ります。
 懐良親王は、父後醍醐天皇の戦略上西に派遣されます。最初に派遣されたところは讃岐ですが、そのとき若干6歳という年です。幼少の懐良親王を支えてくれた人物が五条頼元で、父後醍醐天皇の側近として信頼を受けたいた人物です。懐良親王の九州における約30年の活動を実質的に裏で支えていた人物です。
 讃岐に渡った懐良親王一向は、九州の阿蘇一族に繋ぎをつけようとします。九州における南朝方に組してくれそうな勢力は、肥後の菊池一族と阿蘇一族です。菊池一族と阿蘇一族に支援され、肥後入りが出来ることは、九州の拠点大宰府を落とせる距離に入れるからです。九州を支配するということは、古代から大宰府を支配するということになります。
 しかし当時北九州の勢力で南朝方の武家としては、菊池一族より阿蘇一族の方が総領による一族統一の度合いが強く一族として安定したいたことにより、まず阿蘇氏に繋がりをつけたのだと思えます。
 しかし一気に北九州に入ることはかなわず、懐良親王一向は伊予の忽那諸島を本拠とする忽那氏のところに約3年ほど滞在し、九州への上陸の機会を待ちます。
 忽那氏を頼ったのは、後醍醐天皇が、社会の辺境へ追いやられていく人々を取り込んでいた関係、また海のルートを使わなければ、陸上交通はほぼ武家政権によって抑えられていたからです。
 懐良親王一向は、忽那氏の水軍に護衛されてまず手始めに薩摩の山川に入り、そこから谷山城に入城します。菊池氏、阿蘇氏のいる肥後に入る準備です。
 しかしなかなか肥後に入ることかなわず、薩摩の谷山に滞在すること約3年、しかしついに菊池氏が、武光の代になり、菊池氏一族をまとめ上げ、懐良親王を迎える手はずが整います。
 菊池武光は菊池氏の庶家出身ですが、武将としての才能に恵まれ、菊池一族の総領として名実共に承認されます。菊池氏はこの武光の時代に菊池氏最盛期を迎えます。
 菊池武光の活躍については、別の機会に譲るとして、一時は念願の大宰府を落とし、東上作成を実行しようとした菊池武光と懐良親王ですが、時代の趨勢としての武家政権の流れには抗しがたく、ついに鎮西探題の今川了俊によって大宰府を落とされます。
 大宰府支配の期間わずか11年に過ぎませんでした。大宰府を追われた菊池武光と懐良親王は、菊池氏一族の本拠地に引きこもり抵抗しますが、じわじわと今川了俊によって包囲されていきます。そんな武家政権確立の時代が明確に見えてくる中で、懐良親王を支えてきた菊池武光は亡くなります。
 武光の跡を継いだ武政も父武光の意思をついで今川了俊に抵抗しますが、その武政も父武光の後を追うように亡くなります。その跡を継いだのは幼少の賀々丸ですが、懐良親王の方は、祖父武光に対するような信頼感はなかったようで、懐良親王は征西大将軍の役割を良成親王に譲り、自身は良菊池氏の保護の下からいずこへと去っていきます。
 懐良親王の京都への東上作戦は、菊池武光という稀代の武将によって一瞬の間だけでも、夢から現実へと押し上げられていきます。しかし大きな時代の趨勢の中では、九州の武家の一族がどんなに抗したところで、所詮は武家政権への流れは止めることはかなわなかったのでしょう。
 しかし菊池武光と懐良親王という頑なに時代に抵抗した人間の中に、共感を覚えるのです。この募稜の前に佇んでいると、時代に抵抗し、時代に翻弄され、時代に消されていった、しかし確かな手ごたえのある一人の人間が現れてくるのを感じます。

《追記》《古代日本と渡来文化》の中で水野裕氏は南朝方が約60年も吉野を拠点に戦えたのは、九州における懐良親王配下の南朝方からの軍資金提供があって初めて可能であつたことに触れています。そういう点でも懐良親王は南朝方の最後の拠り所であったと言えます。 

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