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吉川元春の墓  広島県千代田



 写真は、広島県北広島町(旧千代田町)に残されている吉川元春、元長父子の墓所です。

吉川元春は毛利元就を父に、吉川国経の娘を母として1530年に郡山城内で誕生。
毛利三兄弟として後世有名になる隆元、隆景も同じ母親から誕生しています。
元春の初陣は1540年から翌年にかけて行われた《郡山城合戦》です。この戦いは山陰の覇者尼子氏が毛利氏を攻略するために、出雲から敵地安芸国に本格的に侵攻した戦いです。約三万の尼子氏の軍をわずか2千ほどの兵力で迎え撃ちます。しかし援軍として大内氏から陶晴賢率いる約一万の援軍があり、どうにか尼子軍を出雲に退散させます。このとき若干9歳の元春は城内に留め置かれますが、護衛を振り切って父元就に従います。元就も元春の心意気に感じ入り、出陣を許したといいます。
 このとき以来、元春の人生はまさに、毛利氏の発展と共にあり、生涯を戦いの中に明け暮れた戦国武将の見本とも言うべき人生でした。

 元春の人生の転機が訪れるのは、1547年頃です。この年、元春は安芸の国人領主熊谷信直の娘を嫁とします。この婚姻のエピソードはよく知られたことで、ご存知の方も多いと思います。熊谷信直は豪快な武将としてその武勇はあまねく知れ渡っていました。そのような信直のひとつの悩みはしこめの娘のことでした。それを承知の上で元春の方から、婚姻の話をしたようです。このようにして、熊谷氏と毛利氏との硬い絆ができ、爾来熊谷氏は元春のよき藩屏として中国地方各地の合戦に合力していきます。
 新庄の局と呼ばれることになる元春のこの正室は、生涯を元春のよき相談相手として、息子たちのよき母親として、戦国時代には珍しい闊達な女性として生きていったようです。舅の元就に対して宛てた手紙にも屈託のない思ったことをずけずけと発言する文面が残されています。元春には側室のエピソードは聞こえてこないところを見ても、新庄の局との夫婦仲は生涯睦まじい中であったようです。こんなところにも吉川元春という武将として、また1人の男としての性格がうかがえます。

  同じ年、元春は父元就の計らいで、母方の実家吉川氏の養子縁組を締結させ、ここに吉川元春が誕生します。吉川氏の流れを謀殺しての、元就による強引な吉川氏乗っ取りであったことは確かです。彼が吉川氏の本拠地大朝に入るのは、3年後の1550年のことです。用意周到に吉川氏の内部固めを元就が完成した後で、憂いのない状態を確認した後で息子吉川元春を送り出します。
 その後の元春の生涯は毛利氏の発展を軌道を一にして戦いの連続です。
1555年、戦国時代の合戦の中でも有数の謀略戦《厳島合戦》が行われます。これにより、毛利氏は安芸国の中の一領主から、一躍戦国大名へと飛躍していきます。
間髪いれず、防長攻略へ。それから、取って返して石見地方の攻略へと向かいます。
1558年の石見の小笠原氏の攻略を取っ掛かりに、石見銀山攻略、1562年には、宿敵尼子氏の攻略を開始。足掛け5年にも及ぶ持久戦の末、山陰の覇者尼子氏を降伏させます。尼子氏攻略中兄隆元が死亡。毛利氏の家督は隆元の嫡男輝元に引き継がれます。

 尼子氏の攻略が終結すると、九州の立花城を巡り大友氏との攻防戦に巻き込まれていきます。西に大友氏、当時に山陰では尼子氏が息を吹き返します。毛利氏にとっては両面から攻撃された形になります。元春にとっても最も多忙な時期であったかも知れません。そんな中、1970年毛利元就は郡山城で75歳の生涯を閉じます。このとき山陰の尼子残党掃討のため、出雲に出陣していた輝元、隆景は急遽安芸に取って返しますが、元春だけは、父の葬儀に帰ることかなわず、ひとり山陰の地で尼子残党の掃討作戦を続けます。元春の心中いかばかりだったことか。
 吉川元春は、その後も山陰方面を進撃し、因幡から丹波地方まで攻略します。
しかし、毛利氏にとって、最大の敵が迫っていました。織田信長です。小田軍の中国地方攻略方面軍として秀吉の軍と、吉川元春は数回にわたって合間見えてますが、決定的な合戦は一度も成されませんでした。秀吉も、吉川元春の戦振りには一目置いて、野戦でまともに勝てる相手ではないことは秀吉自身が知り尽くしていたと思われます。秀吉という武将は、小牧長久手の戦いでも徳川家康に実質負けているように野戦は得意ではないのです。それに比べれば、吉川元春という武将は、9歳にして初陣より、父元就に付き従いありとあらゆる戦いを経験した武将です。慎重にして猛勇果敢。

 しかし単なる教養もない武将ではなく、陣中で吾妻鏡を全巻模写するなど、すこぶる教養の豊かな一面も持っています。今に残されている吾妻鏡吉川本など、吉川家の文化面の功績は大きいものがあります。<br>
 吉川元春にも武将としての終わりの時が来ます。1582年、毛利氏は秀吉と全面的に備中高松城にて対峙します。この戦いで決死の覚悟で望んでいた秀吉は、本能寺の変の事件を隠したまま、毛利氏と講和に至ります。本能寺の変の知らせを知ったとき、吉川元春は秀吉追撃を主張したと言われていますが、一方の小早川隆景が誓詞の墨も乾かないうちにそのようなことをするのは武士の習いではないと頑なに主張。すでに両川として毛利輝元を補佐してきた兄弟には、いつの間にか見えない溝ができていたようです。<br>
 この講和によつて、毛利氏は秀吉の軍門に下り、10カ国を領する大名として生きていく道を選択します。吉川元春が吉川氏の家督を嫡男元長に譲り隠居するのは、この年のことです。元春には秀吉の臣下として従うことはできなかったのでしょう。
 その後秀吉が天下を取ったあとも、秀吉政権との交渉は輝元、小早川隆景だけになります。元春はついに秀吉に見えることはしませんでした。
 しかしそんな元春に業を煮やした秀吉は、ついに島津氏の征伐に、元春の出陣を要請してきます。はじめ頑なに秀吉からの要請を拒み続けていた元春ですが、ついに輝元と隆景のたっての願いに折れて、病身をおして九州征伐へと出陣していきます。

しかし陣中の小倉城内にて1586年11月ついに不帰の人となります。
 跡を継いだ嫡男の元長もしかし、翌年日向の高城攻略中に陣中にて病没します。
その跡を吉川家を継いだのが三男の吉川広家です。
 嫡男元長は、父元春に劣らず学問に造詣が深く、さまざまな教理を研究し、僧侶と問答するほどでした。彼がそのまま吉川氏当主であれば、関が原での毛利氏の動きは興味あるところです。広家のような動きはしなかったかも知れません。

 
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