サムライたちの墓>
吉川興経―広島市安佐北区深川

吉川興経は安芸吉川氏14代の当主にあたります。吉川氏は中国山地の中央部に勢力をもっていて、代々山陰の尼子氏とのつながりが深く、瀬戸内海川の大内氏勢力から距離を置かざるを得ない立場にありました。
 第14代当主の興経は武勇誉れ高い武人であったらしく、《鬼吉川》と恐れられていた吉川基経の再来とまで言われたようです。しかし、興経は武勇には優れていても、政治的なことにはあまり頓着しなかったようで、合戦に明け暮れ、家政はもっぱら重臣に任せっぱなしにしていたようです。そこで重臣の一人大塩右衛門という者が家政を牛耳るようになったのに対して、興経の叔父にあたる吉川経世ら反興経派がクーデターを興します。この吉川家内紛に利用して経世らを抱きこんでいたのは毛利元就です。吉川常世らの要求は、興経の引退と毛利元就の次男で12代当主吉川国経の外孫にあたる元春を次の吉川家の当主に迎えると言うものです。毛利元就の正室が吉川家の出であるからです。
 しかしこの交渉はなかなか進展せず、一年間も交渉が続きます。興経の隠居後の待遇などについて、なかなか吉川家の要求と毛利元就の折り合いが付かないわけです。興経はそのまま吉川家の本拠地の近くに留まる、興経の嫡子千法師の所領相続などの条件を提示します、しかしはじめからこのクーデーターの黒幕は元就だったと見ていいと思いますが、その元就が吉川家乗っ取りを仕組んできたわけですから、興経の処遇についていい返事をするわけがありません。
 1547年2月に元春と興経との養子契約が成立しますが、興経と嫡子千法師の処遇については、吉川家の要求を断固として元就は拒絶し、興経を毛利領内に移すことを要求してきます。これでは、興経の命は元就の手の内にあることになります。それでも従わせざる得ない状況に興経は追い込まれていたということです。政治的手腕にかけては興経など元就の敵などではなかったようです。
 興経の隠居場所は、吉川家の本拠地である大朝荘から30キロ以上も離れた深川に落ち着きます。ここで主従数名と嫡子千法師との穏やかな生活が続くかと思われました。
 興経を深川に幽閉した後の元就の行動は、毛利家発展への始動期のごとく次々に行動を起こしていきます。毛利家重臣の井上一族の絶滅、三男隆景の竹原小早川家への養子縁組など着々と発展への布石が打たれていきます。
 1550年9月ついに元就は興経を消す刺客を放ちます。熊谷氏などを使い約3百名ほどの兵で館を取り囲んだといいます。武勇として知られた興経のことですから、一筋縄ではやれないと踏んでいたのでしょう。興経の家臣に中にすでに内通者がいて、弓の弦を切り、刀の刃を落としていたようです。それほど興経の武勇は只者ではなかったのでしょう。
 興経の嫡子千法師は乳母が抱えて近くの山へ逃げ込んだところで切られ、興経にしたがっていた手島兄弟五人も討ち死に、興経の墓所の近くにそれぞれ墓があります。
  興経で藤原吉川家の正統な流れは絶える事になり、その後の吉川家は元就の次男元春の流れになります。


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