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菊池武光の墓


  菊池武光は菊池氏第十五代当主にして、菊池最盛期の当主になります。
菊池氏のルーツつにいては、神社ノートの《菊池神社》を参照してください。

武光は第十二代菊池武時の第十子ということです。はじめ武光は肥後南部の豊田荘の地頭として菊池一族の中で、惣領家からは距離をとった立場にあったようです。 しかし菊池惣領家の力が弱体化していくなかで、着実に武士団として力をつけていた武光が、名実ともに菊池惣領家の当主として迎えられていくことになります。

その武光を歴史の表舞台に引き出すことになるのは、九州は薩摩の地に入られていた懐良親王が、菊池武時以来南朝方にたって戦ってきた菊池氏をたより、菊池の地に入られることになったことです。 薩摩の谷山より海路で菊池に入部し、ここに西征府を構えられて、九州に号令をかけられていくことになります。 それを軍事的に支えていくのが菊池武光でした。

武光が当主となった当時、九州の宮方は幕府側に押され気味でしたが、この情勢を大きく変えることになる出来事が、この懐良親王の菊池入部、そしてもう一人足利尊氏の庶子で尊氏に疎遠にされ、尊氏の弟直義の養子になっていた、足利直冬の九州への下向です。 これに、九州全土に対する支配権をめぐる幕府側の九州探題一色範氏とそれ以前の探題少弐頼直との反目が入り込んで、九州は再び宮方と幕府方とに加えて、足利直冬の三軸体制の動乱の中に突入していきます。

しかしこの三極体制も、中央における足利直義が毒殺されるに至り、九州の直冬の権威が失墜し、直冬が中国地方へと退却したことで、わずか三年余で収束します。

菊池武光が活躍した主だった戦を杉本氏の《菊池三代》に従って列挙すれば、
1353年少弐氏と連合して、一色氏を破った針摺原合戦。 その後はしばらく九州各地を転戦。各地の幕府方の勢力を落していきます。

1359年 筑後川の戦い。 少弐氏が大友氏と謀って、菊池氏を迎撃しようとした合戦。九州最大の合戦とも言われ、宮方四万、少弐方六万と《太平記》にはあるそうな。
現在の久留米市の筑後川沿いを舞台にしての戦です。大友氏と東西から挟み撃ちにしようする平地での合戦を承知の上で、あえて自ら軍を進軍されていくあたりは、平地での合戦を好んでやってきた菊池武光らしいと言えるかもしれません。

この戦いには、菊池氏は一族の主だった武将たちも参加する菊池一族の総力戦で、宮方の支柱懐良親王も参戦します。筑後川をはさんで膠着状態が続きますが、武光は果敢に筑後川を越えて敵陣に迫り、少弐軍は後方へと退却します。今度は宝満川を挟んで対峙し、膠着状態を破るため、武光は夜半数百騎を渡河させ、奇襲させます。この奇襲作戦にかく乱された少弐側は、敗走し、菊池軍は念願の大宰府攻略に成功します。大宰府の持つ意味は、九州全土に対する政治的軍事的統括の中心地ということでしたから、晴れてそれを掌握したということです。

しかし九州での情勢は必ずしも中央の情勢と符合しませんでした。 二代将軍義詮が死去し、義満が三代将軍に就くと、幼少の将軍を細川頼之がよく補佐し、幕府はまとまりを見せて、一気に九州奪還のため、新しい九州探題を送り込んできます。それが今川了俊です。

  今川了俊は急がず、四国、中国地方の毛利氏、吉川氏、大内氏のような有力揚力豪族、大名たちを着実に支配下に置くことで、背後からの心配を取り除き、九州制圧に集中できる環境を作り上げます。 九州の宮方を完全に包囲できるようにして攻めてきます。

  豊後方面に武光軍を誘い出し、了俊の本体は大宰府攻略に進軍。 武光はすぐさま大宰府へ向かいますが、今川了俊率いる幕府方連合軍の大群の前にはどうすることもできず、ついに武光は懐良親王を率いて南の高良山へ退却し、ここに名実ともに菊池氏の大宰府支配の時代は幕を閉じます。 高良山に退却しても、以前宮方の勢力が完全に封じ込められたわけでもなく、九州の各地では宮方に付いているものもいました。武光はこの高良山から激を飛ばして宮方の戦いを指導していたようですが、そんな中ついに、武光はこの高良山の陣中にて死亡します。 享年五十ニ、三歳ではなかったのではなかろうかと推測されています。

  現在武光の墓は写真下のように、菊池市正観寺境内にあります。傍らには大きな楠が武光の墓守をするからのように生い茂っています。 九州の歴代武将の中では、戦国期の立花宗茂、島津義弘と並ぶ三大武将ではないかと思います。


参考文献
杉本尚雄《菊池三代》
荒木栄司《菊池一族の興亡》
森田誠一《熊本県の歴史》




南朝の忠臣としてのシンボルとしてか、楠の大樹の下に安らかに眠る武光の墓。


関連ページ
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