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肝付兼続  鹿児島県志布志市

写真は 志布志市大慈寺近くの公園に建立されている肝付兼続の墓です。肝付兼続は肝付氏代16代当主で、歴代肝付氏の中でも英主と仰がれた武将です。肝付氏は平安時代に大隈の地に定着して発展してきた豪族で、兼続の父兼興の代に大隅一円に勢力を張るほどに興隆してきます。その後を継いだのが兼続です。
 兼続は日向方面へも盛んに進出し、北郷氏やその地を抑えていた島津氏と幾たびも戦を交えていますが、薩摩本土の本家島津氏とは、島津忠良の娘《阿南》との政略結婚によって、一時的な休戦状態を保っていました。薩摩半島一帯を攻略し、次第に北部へと進出しかけていた当時の島津氏は、大隅の大半を勢力下としていた肝付氏との直接対決を避け、じわじわと追い込んでいこうとしていました。そのための計略のひとつが、肝付氏との婚姻関係を持つことだったのだろうと思われます。
 しかしこの島津氏との休戦状態も長くは続きませんでした。地元の郷土史によれば、兼続一行が薩摩に招かれた折、島津氏の伊集院某という重臣が肝付氏に対して礼を失した振る舞いがきっかけで、肝付氏重臣の薬丸某が島津氏を罵倒し、島津家家臣の伊集院某が幕を切ったところ、たまたま肝付家の家紋である鶴を切ってしまったと言います。それに対して、肝付氏一同憤慨し直ちに鹿児島を後にして大隅の高山に帰り、いくさ準備に取り掛かったと言い伝えられています。
 いずれにしろ、きっかけは何であれ、島津氏が薩摩大隅の地に入部する以前から大隅の覇者たらんとしてきた肝付氏と、肝付氏の後から薩摩大隅の地に入植し、薩摩大隅統一を目指している島津氏との戦いは必定だったわけです。
 かくして肝付氏と島津氏との間の、生き残りをかけた戦いの火蓋は、福山の廻城攻防戦で始まります。この戦いでは、兼続に垂水の伊地知氏、根占の根占氏などが応援に駆けつけ、緒戦は肝付氏優勢に進みます。島津貴久の弟忠将が不覚をとって肝付氏の伏兵に討ち取られたのはこの時です。しかし後半島津氏の全力を投入し肝付氏を退けます。
 その後、兼続は志布志、松山へと転戦し、南大隅一帯を押さえます。1566には譜代の重臣たちを連れて志布志に隠居し、高山城は嫡男良兼に譲ります。しかし1566年11月 島津氏一族で重臣の伊集院忠棟の率いる島津軍に高山城は囲まれ、ついに落城します。良兼父子は、父兼続のいる志布志目指して落ち延びいきますが、途中東串良の池之原というところで忠棟の軍に囲まれ殺されます。その一報を聞いた兼続は大慈寺の前の浜辺で自刃したとも伝えられています。写真の供養等が建立されているこの地が、自刃の地だったということでしょうか。大隅に約600年の地歩を築いていた肝付氏も、兼続の死からわずか14年後には島津氏の一家臣として大隅の地から切り離され、薩摩半島に移動させれます。


【補記】
 肝属氏の分流、加治木の肝属氏が幕末の肝属尚五郎を産み、小松家の養子となり小松帯刀となり、薩摩を動かし、日本を動かしていったことを考えれば、歴史の皮肉さを改めて考えるわけです。肝属氏滅びず、といったところでしょうか。


関連情報
薩摩紀行―肝付氏の家系
古城紀行―高山城 
おんなたちの墓―阿南の墓
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