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桐野利秋の墓   鹿児島市


桐野利秋と言えば、西郷隆盛の右腕として倒幕から西南戦争まで、日本史の激動期に彗星のごとく現れ消えていったサムライとして知られています。
 1838年12月中村兼秋の次男とし現在の鹿児島市吉野町実方に生まれます。母は、おなじ実方の別府九郎兵衛の娘で、別府晋介とはいとこ同士にあたります。
 事情がありしばらく母方の中村姓であったものの、明治以降に本来の桐野姓に戻したと言います。
桐野家のあった実方は、鹿児島の城下町のはずれにあたる場所で、重富へ抜ける白銀道への入り口にあたる山間で、錦江湾も桜島も遠望できないようなところですが、城下士の身分で、外城制度の下での麓に在住していた郷士身分とは違っていました。しかし中村家の禄高はもともと二十石あたりあつたものを、調所の緊縮財政の下削られ、僅か五石ばかりの扶持で一家七人生活していかなければならない貧困生活であったようです。彼が鹿児島の城下に住んでいた西郷隆盛宅を訪れた際、手土産にサツマイモ三本を持ってきたことに、弟の西郷従道が笑おうとしたことを諌めた話は語り草として有名ですが、これなど当時の桐野利秋の生活を彷彿させてくれます。薩摩の武士団の特色として、郷士は半農半士の生活をしていたようで、桐野利秋も若い頃から朝から晩まで近くの畠を耕すことが日常生活の大部分を占めていたようです。彼が後年西郷の後を追うように帰鹿してから、実家の近くの吉野の荒地を買い取り農業に勤しんでいたのは、この少年期からの彼の原点があったからだと思われます。
 彼が歴史に登場してくるきっかけとなったのは、1862年、島津久光が薩摩の精兵役一千を率いて京に上がった時です。桐野利秋もこの精兵の中に加えられたのです。とにかく腕っ節の強いつわものを中心に編成された部隊でした。これより桐野利秋は幕末の動乱の中に放り込まれていきます。

  京都活動中に彼に付いた異名は《人斬り半次郎》。示現流の腕前は達人で、その剣術振りから、あたかも冷徹な殺人鬼という印象を与えられますが、そのイメージはむしろ土佐藩の岡田以蔵にふさわしいもので、桐野利秋が生涯に斬った人で確認できるのは、赤松小三郎と戊辰戦争後の東京で襲われた刺客あたりです。
 この赤松小三郎とは、上州上田藩の兵学者で、薩摩藩に招聘され、桐野利秋もその門下生として学んでいます。しかし桐野利秋は赤松小三郎が幕府のスパイであると疑い、赤松小三郎が藩命で江戸に上がることを知った彼は、ついに赤松小三郎の暗殺に動きます。薩摩藩は赤松小三郎暗殺の事件には緘口令をしいて、薩摩の人間は係わっていないように見せかけます。
 薩摩藩の使い走り的存在であった桐野利秋にも、歴史への出世街道が訪れます。鳥羽伏見が彼の出世街道の出発点になります。このときの彼の活動についてはあまり知られていません。その後戊辰戦争で、桐野利秋は会津城の城受取の大任を任されます。これは西郷の推挙によるもので、すでにこの頃には桐野の活躍は西郷の目に入っていたことになります。桐野利秋は約二千程の支援軍を率いて会津に突入、会津城は陥落。松平保容父子は城受取の軍監桐野利秋の前に進み出で、謝罪状を提出。桐野利秋はそれを受取、無事に城受取の儀式は終了。桐野のあまりに手馴れた振る舞いに、どこであのよあなことを習ったのか聞かれたとき、桐野は次のように答えたと言います。《江戸の愛宕の寄席を見ていただけだ》と。桐野利秋は江戸にいた頃頻繁に芝居を見ていて、赤穂城の城受取の場面を覚えていて、それを手本にしていたというもの。後年もう少し学問があればとあの時ほど思ったことはないと述懐しています。渡された書面をみても何がなんだかさっぱりわからなかったと述懐しています。桐野利秋については、無学文盲といううわさもありますが、京都にいるころの彼の日記が残されていて、達筆な筆跡で几帳面に記されているなど、決して無学文盲などではなかったことはわかります。しかし当時の上級武士の教養ほどのものには到達していなかったであろうことは、彼の生い立ちから想像できます。西郷も《桐野に学問があれば俺など決してかなわない》ようなことを言っていることからしても、彼の教養の程度は推測できるのです。

しかし西郷隆盛に信任されている桐野利秋は、新しい時代の到来の中でその出番を宛がわれていきます。
 1871年明治四年、明治政府は廃藩置県を強行するための準備として、政府に直属する兵力を備える必要から、薩摩、長州、土佐の三藩に対してその藩兵を政府の兵力として差し出すように要請します。この兵力を御親兵とし、桐野利秋はこの御親兵の大隊長に任命されます。その年の7月には日本史でご存知のとおり《廃藩置県》が実施されます。直後桐野利秋は兵部省に移動させられ、日本最初の陸軍将軍に任命、同時に従五位に任官。翌1872年には、鎮西鎮台(後の熊本鎮台)司令長官に任命されます。
 ところが、明治政府の方針は徴兵制の導入によって、日本全国から広く兵を募り訓練することで近代的軍隊に仕上げていくというものだったのですが、桐野利秋は薩摩の気風を受け継ぎ、兵=サムライという固定観念から脱することができず、時の陸軍トップの山県有朋や谷干城などと激しく対立します。やがて彼らとは西南戦争で敵味方となっていく運命にあります。見かねた政府側は、桐野利秋を熊本鎮台司令長官から、事務方の陸軍裁判所所長に移動させます。生粋のサムライの桐野利秋にとって、この職は閑職に等しいものと感じられたのではないでしょうか。しかし官位は正五位に昇叙しています。ところが、この年俗に言う《征韓論》があり、西郷隆盛が盟友大久保利通に負ける形で政府から退く事件が起こります。西郷隆盛の辞官に従い、江藤新平、後藤象二郎、板垣退助など政府の要人が退職、さらに政府の軍の中枢を構成していた薩摩の軍人将校、桐野を初め、篠原国幹、別府晋介、辺見十郎太などが明治天皇の制止を振り切って辞職。時の政府にとって、政府をバックから支えていた薩摩の兵が失われ、ひょっとすると反政府的動きをすることになることに、危惧の念を持っていたことがわかります。明治天皇直々に軍の将校たちを集め訓辞をしたことに、当時の危機感が感じられます。
 西郷隆盛と供に明治政府を去った人々は、翌1874年鹿児島に《私学校》を設立。これは名目的にはサムライたちの今後の生活展望を切り開くための授産所施設かつ軍事訓練施設のようなもので、実質は西郷隆盛の私兵軍団養成所みたいなものとなっていきます。大久保など時の政府がこの動きに神経を尖らせていたことも頷けます。そして時の鹿児島県令(知事)であった大山綱良は西郷隆盛ら私学校党に有利なように県政を行い、明治政府から実質独立したような状況を鹿児島に作り出していました。西南戦争は、このような西郷隆盛、大山綱良率いる鹿児島と明治政府との必然的衝突として避けられないものだったと見ることができます。桐野利秋はこの頃、政府からマークされていた西郷隆盛に代わって積極的に動きます。いわば彼が西郷の分身として反政府分子とのニゴシエーションをしていたようです。そして運命の明治10年(1877)を迎えます。


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