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村上元吉  広島県竹原市


写真は村上元吉の墓です。 広島県竹原市の鎮海城にあります。  

村上元吉は村上水軍の頭領村上武吉の嫡男です。村上氏は来島氏、因島村上氏と縁戚関係で結ばれていましたが、来島氏が伊予の河野氏との結びつきが強かったのにたいして、能島村上氏と因島村上氏は小早川氏との関係がが強く、三者三様の動きはありますが、能島村上氏が全体の頭領的立場にありました。1555年の厳島合戦をきっかけに毛利氏との関係を深めていった村上氏ですが、毛利氏が秀吉政権に組み込まれていくと、秀吉の海賊追放政策のために、行き場を失うようになります。村上武吉は、なかなか秀吉に下ることを潔しとせず、最後まで抵抗したため、秀吉の逆鱗に触れ、秀吉から首を要求されます。小早川隆景はそんな村上武吉親子を匿いまい続けます。
 この竹原の鎮海城は、秀吉政権に追われていた村上氏の最後の安住の地として、毛利氏庇護の下で築城したものです。

 関が原の戦いが始まると、村上武吉親子は、伊予の加藤嘉明の領土松山を攻撃しもあわよくば失地回復をかけます。そこは同時に同じ一族の来島氏の領地でもあります。関が原では来島氏が東軍につき、村上氏とは明暗を分けます。伊予の三津浜に上陸した武吉の嫡男村上元吉は、加藤嘉明が関が原に出払った隙を狙って一気に攻め込むつもりであったが、留守を任されていた佃十成の策にはまります。佃十成は城周辺の住民を買収して、加藤嘉明の悪政をさんざん言わせて、村上氏の来攻を歓迎しているような風評を流します。それに気分をよくした村上元吉らの軍はすっかり調子に乗って酒宴を開いて無防備状態になります。その油断しているところへ、元吉らの軍へ急襲をかけます。この急襲で元吉はあっけなく討ち取られます。享年48歳。 

 嫡男元吉を失った武吉の落胆は大きく、かつての瀬戸内海を我が物顔にしていた往時の勢いはなく、静かに余生を送る一人の老人に成り果てていきます。毛利氏が長州へ移封されると、武吉ら村上氏は毛利氏に従い、周防大島を与えられ、周防大島の和田の地で武吉は余生を送ります。
 
サムライたちの墓―村上武吉の墓
古城紀行―鎮海城跡
 
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