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那須与一  広島県戸河内町 

写真は那須与一の墓です。那須与一の墓は全国に数箇所ほど伝えられていますが、この地の伝承は、鎌倉幕府からこの地の地頭に任命されたことから、晩年この地に住んで亡くなったと言い伝えられています。那須与一に因んで、与一野と呼ばれるようになったと言い伝えられています。
 2005年のNHK大がドラマ《義経》で、屋島合戦の場面ではおなじみ那須与一の扇落しが放映されましたが、一回限りイベントで有名になり、その後の消息が知られていない武将も珍しいものです。
 屋島合戦で那須与一が射落とした扇は、厳島神社に奉納されていた高倉上皇奉納の扇と言われています。
 当時厳島神社は平家の氏神的な存在で、都落ちした平家が一族の運命を占った折、当時の厳島神社を支配していた安芸の豪族佐伯景弘が、高倉上皇奉納の扇を持ち出し、『この扇を源氏が射落とせなかったら、平家が勝ち、射落としたら平家は負ける』と占ったと言います。
 屋島で《玉虫前》という女官が掲げていた扇は、このような謂れで、那須与一との対面になったということです。
 那須与一については、那須与一がこの出来事で後世名を残すことになるわけですが、その後の彼が名もなくなくなっている理由として、屋島合戦における大失態があります。
 義経は始め畠山重忠に命じたようですが、畠山重忠は当然辞退します。もし失敗すれば名声は一気に失墜することは明白だからです。そこで畠山重忠は那須十郎を指名しますが、十郎も辞退。そこで十郎の弟与一に白羽の矢が回ってきたというわけです。
 源平両軍が見守る中、八幡大菩薩に祈願し、一気に矢を放つと見事扇の鼎に命中。両軍からドッと歓声が上がります。感激した平家は船の上で舞を始めます。それを見ていた源氏の者の中には、あれをも射よと言う声が上がり、那須与一は調子に乗って、舞を演じる平家を射殺します。この瞬間、与一は天下の晴れ舞台から一気に奈落の底に落ちることになります。
 扇を射落とすところまではよかったものの、調子に乗って、与一を称えて舞を踊っているものを射殺すとは、たとえ敵といえども、当時の教養人の常識では考えられないわけです。いかに義経の軍が田舎者の集まりだったのか、いい証拠でもあります。
 那須与一、これほど一躍有名になり、一躍無名になった武将は他にいません。彼を有名にした事件は長く言い伝えられても、その後の彼を忘却させることになった出来事は、忘れられていきました。
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