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新納忠元   鹿児島県大口市

写真は、鹿児島県大口市にある新納忠元夫妻の墓です。
 新納忠元は、島津貴久、義久に仕えた薩摩古武士を代表する武将です。
 新納氏は、島津氏の分流で、島津氏第四代忠宗の四男時久が始祖となります。新納氏と称したのは、時久が日向新納院(高鍋地方)の地頭職になったときからです。新納忠元の流れは、さらにこの時久の三代後の忠治の次男是久の流れになります。新納旅庵もこの是久の子孫であり、また島津氏中興の島津忠良の生母常盤も、この新納氏出身になります。
 
  しかし、日向が畠山直顕の勢力圏となりこの地から追われ、志布志地方に移りしばらくはその地にありました。志布志にあった新納氏は、戦国時代の真っ只中島津氏同族同士の抗争に巻き込まれ、志布志の居城松尾城が、島津忠朝、肝付氏、北郷氏などによって攻められ、存亡の危機に直面します。救援を島津忠良に求めるも、島津忠良も手一杯の状態で薩摩半島から動けず、城は落城してしまいます。
 父祐久と忠元は、祐久のおじ忠澄が、島津忠良のもとにいたことで、そのつてを頼り島津忠良の下に庇護されます。
 その地で、叔父忠澄のもと、忠良の嫡男貴久、その息子義久、義弘らとともに教育を受けながら育ちます。忠元13歳のときです。この教育環境が、新納忠元を他の薩摩武士とは一線を画するほどに文武両道に秀でた武将としていったたことは明らかです。
 
  後年、島津氏が秀吉に下り、最後まで抵抗していた新納忠元が主君義久の命で秀吉に下り、曽木の天堂が尾で豊臣秀吉、細川幽斉と会見。そのとき、細川幽斉と歌合せしたのは有名な話。
 1569年に島津義久より大口の地頭に任じられてからは、一貫して肥後口への押さえとして、肥後方面への攻略に明け暮れます。水俣城の攻撃、肥後の相良氏攻略、阿蘇氏攻略、さらには竜造寺隆信を倒した1583年の沖田畷の合戦 と目覚しい武功をあげていきます。
 秀吉による朝鮮への戦いが行われると島津氏も軍を送りますが、忠元は齢60歳を超え、第一線での仕事は無理と息子を送ります。そのとき自分が義弘に随行できなかったことを悔やむ歌を詠んでます。
 
 《あぢきなしや唐土までも おくれじと思ひしことも 昔なりけり》
 また晩年《庄内の乱》が起きたときには、《もっこ》にのって陣頭指揮したと伝えられていて、薩摩古武士の一面を伝えています。
 体躯は小さく、決して大男ではなかったようですが、少年の頃の教育によって稀に見る文武両道の武士であったようです。その忠元の最後の仕事は、江戸時代を薩摩武士の気風伝統の基盤となった《郷中教育》の要諦を作り出したことです。その伝統は、すでに島津忠良の中に現れていますが、それをもっとわかりやすく具体的な形で提示したのが、新納忠元に始まる薩摩の《郷中教育》です。その気風は江戸から明治、さらにはその残滓は、現在までも受け継げられていると言えます。
 
 
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