サムライたちの墓>
大内義長―山口県下関市

写真は下関市の巧山寺にある大内義長の墓です。巧山寺は、もともとは長福寺と呼ばれていた寺ですが、毛利氏が周防長門二カ国に減封になったとき、この下関に支藩として立藩した毛利秀元(毛利元就の孫)が笑山寺と改称し、さらに秀元が没し、その戒名に因んで現在の巧山寺となったわけです。
 大内義長は、もともとは大友晴英といって、大友宗麟の異母弟にあたります。晴英の母は大内義隆の姉に当たり、大内義隆に子供がなかった頃一時 晴英を大内氏の養子にするという話があったようです。
 大内義隆が重臣の陶隆房の謀反により大寧寺で自害したことで、陶隆房により大内家の当主として迎えられ、大内義長と改め、陶隆房は晴英の偏諱を受け、陶晴賢と改めます。
  しかし安芸での地盤を着実なものにした毛利元就の陶晴賢への決別により、1555年の厳島合戦へと動いていきます。厳島合戦で敗死した陶晴賢のあとに残された大内義長には、毛利元就と戦う気力などありませんでした。しかし重臣の内藤隆世は三百余名で要害勝山城に籠城。最後の一戦をします。福原貞俊率いる約四千ほどの敵に囲まれたところへ、降伏が持ち掛けられます。『このたびの戦、義長には他意はないことは承知、しかし内藤隆世については切腹させよ』と言う要求。命が助かるものと信じた義長は毛利氏に降伏、内藤隆世は切腹。義長は長福寺に移されます。ところが一安心していたところへ、毛利氏の軍に囲まれ、はじめて騙されたことを知ります。長福寺の客殿にて切腹。ここに名実ともに名門大内氏は歴史から消えていきます。

 大内義長の辞世の句 


さそうとも何か恨みん時来ては

       嵐の外に花もこそ散れ

   
inserted by FC2 system