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大友宗麟の墓   大分県津久見市



  写真は大分県津久見市にある大友宗麟の墓です。戦国時代のサムライの墓としては、奇妙な感じをうけます。それはキリスト教徒としての墓であるからです。宗麟はこの津久見の地で他界しますが、この墓自体は最近作られたものです。
 大友家という大名は、鎌倉幕府創成期に始まる名門一族ですが、地元九州では今ひとつその人気の程は小さいようです。
 その大友氏、そのルーツは、隣国日向の大名伊東氏などと同様、もともとは関東の武士で、元寇をきっかけとして西国へ移動してきたものです。大友氏の祖能直は、本貫地の相模国大友郷以外にも、豊後国にも地頭職を拝領していて、その縁からこの地に定着するにいたったと伝えられています。
 大友宗麟は、その大友氏第20代当主大友義鑑の嫡男として1530年に誕生します。幼少名は塩法師丸とか五郎とか呼ばれ、1550年に大友家の家督を継いでから大友義鎮と名乗ります。彼の大友家当主への道のりは、しかしけっして順調なものではなく、《二階崩れ》というお家騒動を経ての難産でした。
 宗麟の父大友義鑑は、嫡男の義鎮を退け、弟の塩市丸の家督相続へと動きます。これに反対する重臣を殺したことから、逆に殺された重臣の仲間が大友館の二階に乱入し、塩市丸を殺し、当主の義鑑にも切りつけ致命傷を負わせます。義鑑はその2日後に落命し、結果第21代当主大友義鎮が誕生します。これが《二階崩れ》と言われている事件で、重臣たちを巻き込んだ大友家の内紛と見られています。大友宗麟こと義鎮がこの事件にどの程度積極的に関与したのか定説はないようです。彼がこの事件を湯治先で聞きつけ、その後の粛清処理が迅速に行われているところなどから推測すれば、事前に知らされていた可能性は高いような気がします。
 彼の当主人生前半は、順風そのもので、一時は九州北部6カ国(豊前、豊後、筑前、筑後、肥前、肥後)の守護になるなど、大友氏絶頂期を作り出します。しかしそれから約20年後には島津氏に耳川合戦で惨敗し、大友氏没落のきっかけを作ります。この耳川合戦とは、日向への大友氏の南下作戦なのですが、内部からの反対が強く、それを押し切っての日向遠征の敢行でした。身内の反対を押し切ってまで敢行した宗麟の思いとは何だったのかと言いますと、昔から日向の地にキリスト教の新天地建設を夢見てのことと言われてきました。
    
 
 時代が大きく変わろうとしていたこの時代、新しい西洋の世界に触れて、洗礼を受けクリスチャンになった武将たちが多数現れますが、大友宗麟という大名もそのうちの一人と考えられます。ただ九州最大の守護大名という立場だっただけに、キリスト教への傾斜が、没落へのきっかけとしてきわだって顕著に受けとめらるのかも知れません。
当時の大名たちのキリスト教への関心は、異国との貿易という経済的関心からきていると言われていますが、最終的にキリスト教徒になりきるか否かという究極の選択を迫られたとき、問われたのは経済的な欲求ではなく、精神的・内面的欲求であったことは確かだったろうと思われます。大友宗麟の人生は、前半の華々しい武将としての功績とは裏腹に、夫婦関係の失敗に見られる孤立感、一族家臣団の寄り合いによってはじめて成立しているような脆弱な大名権力の中での苦悩などが感じられます。一人の人間に権力を集中させ打って出ていくというような線の太さが大友宗麟には感じられないのです。島津氏のような図太さ、狡猾さ、剛毅さというようなものが感じられないのです。江戸時代のような平和な時代であつたなら、そこそこにお家を維持していけるサムライだったのかもしれませんが、日本有数の荒くれ武士団の島津軍に立ち向かうには、繊細な精神を持ちすぎていた武将だったように思われるのです。


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