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坂崎出羽守直盛   島根県津和野町


写真は津和野の永明寺にある坂崎直盛の墓です。
 坂崎直盛といえば、大阪夏の陣で徳川家康の孫娘千姫を救出したことで、やがて自害に追いやられた武将として有名になります。
 彼の武将としてのルーツは、宇喜多家一族であり、宇喜多秀家の重臣として歴史に登場してきます。
 宇喜多秀家の代に、宇喜多家は家中分裂状態に陥り、坂崎は関が原では主君宇喜多秀家と戦う運命となります。東軍についた坂崎は、その功により津和野三万石を与えられます。
 彼が津和野城主として在城するのは、わずか16年間のことです。この津和野藩時代に彼が巻き込まれる事件が、三重の津の富田信濃守信高との抗争です。この事件については、近代城郭紀行−延岡城のところで触れてありますのでここでは割愛します。

 坂崎の運命を決定することになる事件が、大阪城落城の際、千姫を救い出したことです。しかし実際には彼がやけどを負いながら千姫を救い出し、変わり果てた姿に千姫から拒絶されたことで、千姫を奪う事件を起こした、というような物語になっていますが、現実は違うようです。 実際に彼が千姫を大阪城に侵入して直接救い出したこと自体も疑われています。
 この事件の顛末は、千姫のその後の身の振り方を家康から頼まれた坂崎が、公家の間を周旋し何とか縁組の段階まで話が進んでいたところに、急遽桑名藩主本多忠刻との婚姻がまとまったことで、それまで千姫の縁組で走り回っていた坂崎の面目が丸つぶれにされた、というのが真相のようです。

 当時の武将たちの中には、まだまだ戦国時代の気風を持っている《かぶきもの》的な武士たちがいますが、坂崎もそのような武士の一人です。《面目》をつぶされた坂崎にとっては、、それは何かで埋め合わせされなければ、とうていのうのうと生きていらないわけです。そこで坂崎は、千姫奪回の暴挙計画を立てますが、これが幕府に知られ、江戸湯島の屋敷にたてこもります。
 このとき、坂崎邸に出向き彼を説得したのが、柳生宗矩です。彼から自害するように諭され、その忠告を受け入れまます。こうして坂崎の津和野藩は16年で断絶します。
 写真の墓は、坂崎直盛が津和野藩主の時代、改易された出羽横手城主小野寺遠江守を庇護したことがありますが、その彼が中心となって坂崎直盛13回忌のとき、この地に墓を立てたと言います。せめてもの坂崎への恩返しだったのでしょう。

 時代は泰平の時代へと変わり始めていました。坂崎もそういう時代の中で、戦国の威風を残していた武将の一人
でした。時代はもはや彼のような戦国の気風を残した人間は必要としていなかったのです。
 
関連情報
近世城郭紀行―津和野城跡
 
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