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薩州島津家の墓  鹿児島県出水市


写真は薩州島津家歴代の墓所です。 鹿児島県出水市亀ヶ城の近くにあります。 薩州島津家は、第十代島津忠国の弟用久が、晩年出水に亀ヶ城を築き、ここに入り 出水薩州と号したことに由来しています。それ以来豊臣秀吉に家督を剥奪されるまで、本家島津氏に対する最有力な一族として繁栄します。 はじめ島津用久は、一揆で揺れる薩摩大隈の経営に、兄忠国に代わり当たり、各地の在地領主たちをうまく抑え、守護代として薩摩大隈の経営に手腕を発揮します。しかしその後、兄忠国と不和になり、一時は兄弟相戦う時期もありましたが、ついには兄忠国の支配下に下ります。  しかしその後も薩州島津家は、宗家に対しては、始祖の用久のこともあるのか、独立した気風を持ちつつけていたようです。それが顕著に現れ、家の大事に繋がっていくのが、薩州第六代の義虎、その子忠辰のときです。  島津義虎は、半ば独立した家の長として行動してきたそれまでの当主たちの立場から、一転して島津氏の一武将の立場に転落します。伊作島津氏が、薩摩大隈を統一し、名実共に薩摩大隈の経営権を掌握、それまで独立傾向にあったそれぞれの島津氏一族が、島津貴久、義久の統一権力の下に統合されはじめたからです。  島津義虎は、島津義久の期待に応えて幾多の合戦で活躍しますが、島津義久、その弟の家久からは疑念を持たれて、謀反に対する弁明に心を砕くこともありました。  このように薩州島津家と伊作島津家との間にはなにかしっくり行かないわだかまりがあったようです。  そして、悲劇は義虎の嫡子忠辰の時に起こります。 島津忠辰は薩州島津家の第七代にあたります。この忠辰、秀吉の島津氏征伐の際、肥後方面からの秀吉本隊に対して、いち早く降参、本家島津氏の降伏を待たずして、秀吉軍を薩摩の地に引き入れます。秀吉の軍が水俣方面から進軍してきたとき、自ら国境にまで出迎えて、薩摩へと先導します。この当たり、島津氏当主の義久の意向とは独自に動いているようです。薩州島津家に伝わった意地みたいなものがあったような気がします。  しかし島津義弘の指揮下の下、朝鮮へ渡海した折には、乗船したまま上陸することを拒み、秀吉からついに領地没収の命を下され、ここに名実共に薩州島津家は滅亡します。しかし何故に忠辰は、義弘の命を拒み、船から降りなかったのでしょうか。  現在、薩州島津家の墓地より高いところに、江戸時代初期に出水の地頭となった山田昌厳の墓がありますが、薩州島津家も一介の地頭より下に見下ろされる始末に、盛衰の悲哀を感じます。


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