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島津中良(日新公)の墓   鹿児島県南さつま市





 島津日新斎こと島津忠良こそ島津氏中興の祖と仰がれている武将で、彼なしには島津700年間と人口に膾炙している島津の伝統はありえなかったかも知れません。

 島津忠良は1492年伊作亀丸城にて誕生。父は伊作島津氏九代善久、祖父は八代島津久逸、母は島津氏一族の新納是久の娘、後の常盤御前。伊作の地は薩摩半島中部にあり、島津荘園の中の一円荘です。父善久は家臣と口論の末殺されたようです。後に残された未亡人と幼い忠良の頼るべき人物は祖父である島津久逸だけだったようです。

 忠良の運命を変えることになったのは、母と祖父久逸の計らいで城の近くの海蔵院の頼増に預けられたことです。忠良はこの頼増のもとで、少年時代を過ごします。

この海蔵院とは、有川清海氏が指摘されているように、近衛家の祈願寺である興福寺系統の寺であり、この寺で教育をうけたことから、伊作一円の領主としての島津忠良は、領家の近衛家さらには本所にあたる興福寺の人的ネットワークの中で知識と人脈を育まれていったであろうことは容易に推察されます。後に 自身を仏の化身としてカリスマ化していく日新斎こと島津忠良の基礎は、この海蔵院にあると思われます。

 島津忠良は19歳で結婚、1514年に後の島津貴久が誕生します。しかし19歳までの忠良の行動は不明で、どこで何をしていたのか。忠良が伊作一円の領主から将来島津本家を奪回する大きな機会は、母常盤が同じ島津一族であった相州家の島津運久の後妻に入り、運久の領地であった田布施を養子の忠良に与えたことにあります。これにより、島津忠良の領地は薩摩半島南半分の大部分を占めるに至り、他の島津氏一族に対して優位に立てたことです。しかし、この運久との婚姻も、島津氏の系図をみればわかるように、久逸自身が相州島津家とは兄弟の間柄ですから、相州家出身のものとして伊作氏を継いだ人物ですから、伊作島津家と相州島津家とは、忠良で統一という形になったとしても別段不自然ではないわけです。

 かくして、この拡大した領地を基盤に、忠良は他の島津氏一族との抗争に突入、様々な策略で着実に他の島津氏一族、ならびに各地の国人領主たちを落としていきます。
  守護職を受けついでいた本家の島津勝久が弱体であることを利用し、息子の貴久を勝久の養子にして、勝久には伊作に隠居させ、ここに薩摩守護職へと飛躍するチャンスを掴みます。

 貴久を第15代島津本宗家の当主として擁立することに成功すると、自身は加世田の地に隠居し、専らその後の島津氏の流れを確固たる強固なものにすることに腐心します。宗教的なカリスマ性を家臣ならびに一族に浸透させ、その後の島津家のエトスを基礎付けます。それが後世の彼に残された最大の仕事でした。現在彼の肖像を見ると、武将のイメージはまったくなく、袈裟に身を包んだ僧侶の姿しかありません。孫の義久、義弘らが終生兄弟喧嘩もせず、一族相争うこともなく、幾多の試練にも耐えて、先祖代々の領地を守り抜くことができたのも、ひとえに祖父の忠良の薫陶を受け、事あるたびごとに訓戒を聞かせられながら成長したからです。このあたり毛利家の場合に酷似しています。
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