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島津家久  鹿児島県鹿児島市

写真は島津氏18代当主島津家久の墓です。
 島津氏歴代の墓のある福昌寺境内にあります。
 島津氏の中で家久という武将は二人います。一人は島津義久、義弘四兄弟の末弟の家久、そして義弘の息子の家久です。
 島津家久は義弘の三男として誕生しますが、嫡男は夭逝。次男の久保が義弘の後継者と目されますが、朝鮮に渡海中、かの地で病死します。
 そこで三男の忠恒が義弘の後継者として浮上します。
 島津氏第17代当主島津義久には男子がなく、義久の愛娘の亀寿を久保と婚姻させ、その間に誕生する男子に次の家督を譲る腹つもりであった義久ですが、久保が戦地で病死したため、亀寿は弟の忠恒に嫁がされます。政略結婚でした。忠恒は改名し、家久と名乗り、次の島津氏当主となります。父義弘はあくまで、家久の後見役として、兄義久に遠慮し、鹿児島から20キロ離れた加治木に隠居します。
  家久と亀寿との間には、心からの愛情もなく、二人の間には子供もなく、亀寿は国分の館に住まい、別居生活となります。父義久が死んだ後のことです。
 家久の三男忠明が、父義弘の遺言により義弘の隠居先の加治木の地一万石を分知され、加治木島津氏が誕生します。この加治木島津氏から、江戸時代の最大の当主と言われた第25代当主島津重豪が出ます。幕末の名君主と仰がれた島津斉彬は重豪の孫にあたります。


関連情報
 島津氏については、薩摩紀行に詳しく取り上げてあります。  
  サムライたちの墓−加治木島津氏の墓


 
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