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島津家久の墓  鹿児島県日置市

写真は鹿児島県日置市永吉にある梅天寺跡の島津家久の墓です。
 島津家久は、島津貴久の四男として伊作城(亀丸城)に誕生。兄義久、義弘、歳久らとは異母兄弟にあたります。島津家久は、この家久と義弘の三男で薩摩藩初代藩主になった島津家久がいるので、紛らわしいと思います。
 初陣は15歳のときの大隅廻城攻防戦。この戦いで島津方は貴久の弟島津忠将を失いながらも、大隅の雄肝付氏の援軍を破り、大隅への足がかりをつかみます。以来島津家久の生涯は島津氏の三州統一、そして九州制覇へと、島津氏の発展と一体でもありました。
 中でも島津家久の名を、島津の軍神たる不朽のものにしたのが、《肥前の熊》と恐れられていた竜造寺隆信との《沖田畷の戦い》です。1584年家久は有馬鎮貴の援軍要請に応える形で、有馬、島津氏連合軍約3千で、約3万から6万(異説あり)といわれた竜造寺軍を天草半島の森岳山麓の隘路で撃破します。しかも敵の大将竜造寺隆信の首まで討取った勝利でした。家久の軍略家としての面目躍如といったところです。
 さらに九州を北上する島津氏は最大のライバル豊後の大友氏攻略に掛かりますが、大友氏が秀吉に救援を求めたため、秀吉による先発隊が送られます。陣容は軍監仙石秀久、それに長宗我部元親、信親父子、十河存保の四国勢約5千。島津家久は豊後の鶴賀城を落とし、秀吉先発隊をここで迎え撃ちます。
 四国勢の武将長宗我部元親の反対を押し切り、 仙石秀久、十河存保らは援軍を待たずに島津氏を撃破する強行策を敢行。家久のおとり作戦にまんまと引っかかり、四国勢は壊滅。仙石秀久は逃亡。長宗我部元親の嫡男信親と十河存保は討ち死に。信親の死によって長宗我部元親の悲嘆は大きく、その後の長宗我部家の衰退のきっかけになります。
 戦国時代末期の島津氏にあって、島津義弘の武勇は有名ですが、島津氏の九州制覇へとの戦いにあって、実は家久こそ、最大の功労者であったのではないでしょうか。《沖田畷の戦い》では、天草に上陸した途端、輸送船を返し、背水の陣を見せ、兵士には一歩でも前に突き進むこと以外、死刑という過酷な軍令をしいていますが、義弘の優しさとは違う、厳しさや冷徹さが家久の戦い方には感じられますが、しかしそのような過酷な戦い方があったからこそ、重大な局面で勝利を導いたのも事実です。《軍神》と呼ばれる所以です。
 しかし秀吉の島津氏征伐軍を日向に迎え撃つにあたって、島津氏の中ではいち早く秀吉軍に降参したのも家久です。そんな中居城の佐土原で急死します。享年41歳。家久の死については、昔から島津氏内部による毒殺説や豊臣方による毒殺説が流布するくらい、不自然なものとして捉えられていたようです。
 家久の嫡男が豊久で、関が原の戦いで討ち死にします。佐土原の領土は没収され、残された家臣らは島津義弘にとりなし、薩摩半島の日置永吉の地に領地を貰います。これが永吉島津氏になります。島津家久の墓がこの地にあるのは、こうした経緯によるわけです。


関連情報
薩摩紀行―島津氏略系図
サムライたちの墓―佐土原島津氏の墓

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