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島津斉興  鹿児島市


写真は島津氏第27代当主島津斉興の墓です。島津氏本家の当主たちが居並ぶ福昌寺跡の島津氏歴代の墓所の一角にあります 。
 2008年現在放映されているNHK大河どドラマ《天障印院篤姫》にも登場しています。
 島津斉彬の父に当たりますが、嫡男斉彬になかなか家督を譲らず、いわゆる家督騒動とでもいえる《お由羅騒動》まで引き起こしながら、嫡男斉彬との確執は生涯溶けなかったようです。
 幕閣の老中安部正弘などの画策でようやく家督を斉彬に譲りますが、斉彬がその後7年後には他界。斉彬の遣り残した事業は腹違いの弟である島津久光に受け継がれていきます。
 しかし島津久光こそ、《お由羅騒動》の渦中の人物であったわけで、歴史とは皮肉なものです。
 父斉興は、斉彬が亡くなると斉彬が推進していた殖産興業の象徴であった磯の工場そのものの稼動を中止するなど、斉彬の事業をことごとく中止、公然と斉彬の政策を潰していきます。
 しかし時代は、 斉興の意思など超えて動いていきます。斉彬の意思は、西郷隆盛にしっかりと刻み込まれ、新しい時代を切り開いていくことになります。
 西郷隆盛は、内心斉彬周辺の度重なる不幸を 斉興、その側室お由羅、その息子島津久光などと関連させていたようなところがあるのではないかと思います。生涯久光とは袖が会わなかったようです。
  斉興の頑固なまでの斉彬への敵意は、斉彬のあまりに真面目すぎる知性に対する憎悪感だつたのではないでしょうか。斉彬が父より先に死んだとき、父斉興の口から漏れたという言葉は、ざっくばらんに言えば次のようなことだったと伝えられています。『遊びもせず、政治政治といっているから、こんなざまになったんだ』と。当時の殿様たちの華やかな趣味も解せず、日々生真面目に天下国家の事ばかりに悩んでいた息子を気遣った強情な親父の言葉でもあると私は解釈していますが。

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