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島津忠将  鹿児島県福山町

写真は島津忠将の供養塔です。忠将は島津忠良の次男で、島津本家第16代の貴久の弟に当たります。
 島津忠良、貴久父子の三州統一に向けて、各地を転戦する歴戦の勇士でした。 その忠将が討ち取られた場所に彼の供養塔が建立されています。 福山の廻城をめぐる肝付氏との戦いでの戦死でした。
 廻城は大隅から薩摩へ至る重要な拠点であり、この城を肝付兼続が奪いますが、それに対して島津氏は速攻反撃に出ます。 1561年のことです。
 肝付兼続は根占氏、伊地知氏の応援も得て、廻城の守りを固めます。対して、島津氏は、貴久、義久、義弘の本陣が廻城の北東、現在牧の原台地の騒陣が丘と呼ばれている山に陣を構え、忠将は廻城の南方、現在馬立と呼ばれているところに陣を構え、さらに竹原山にも陣を敷いて肝付氏と廻城との兵糧を絶っていました。
 ところがある日の未明、その竹原山の陣に肝付氏が襲い掛かり、急を聞いた忠将は救援に駆けつけようとします。その時、彼は背後の海からの敵の襲来の可能性も考え、兵を分散させます。また廻城からの攻撃にも備えてそのためにも兵を分散します。こうして忠将の本陣には数十名ほどの旗本しか残っていませんでした。家臣の中にはこのようなときには、敵の策略に陥る可能性もあるので、本陣を動くなと忠告しますが、忠将はこの時まで負け知らずの武将だったので、肝付氏に対する油断が起こり、家臣の忠告も聞かず、わずかな旗本と伴に敵陣深く入り込みます。
 救援を待つ竹原山の陣へ向かう山中で、彼の一行は肝付氏の伏兵に挟み撃ちに会います。忠将主従数十名は、救援が来るまでにはすでに皆悉く討ち死にしてしまいます。忠将42歳のときです。
 この忠将の嫡男以久が後に垂水島津家を起こし、さらに家久亡き後の日向佐土原の領地を受け継ぎ、佐土原藩主として続くことになります。


関連情報
島津氏については、薩摩紀行に詳しく取り上げてあります。  
薩摩紀行―島津氏系図 


 
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