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島津以久の墓  宮崎市佐土原


島津以久(ゆきひさ)は、佐土原藩初代藩主です。
以久は、1550年現在の霧島市国分の清水城に島津忠将の嫡男として誕生します。
忠将は、島津貴久の次弟にあたります。父忠将は、1561年現在の霧島市福山にあった廻城を肝属氏と争い、その戦中に死亡します。肝属氏に計られたものでした。
 父忠将が死亡したことで、伯父の貴久は以久を別の領地に替えようとしますが、
股肱の臣16名が11歳の以久を守り育てていくことを誓い、貴久に清水城安堵を許されます。この16名の股肱の臣を日州佐土原十六家と言います。
 以久も父忠将に似て猛勇な武将として名を馳せ、島津氏九州北上戦から朝鮮での戦いに至るまで、戦国武将として各地の戦場を転戦していきます。
 秀吉の島津氏征伐がなった折には、嫡子彰久を清水城に譲り、自身は上井城に隠居します。秀吉時代の検地により、以久には種子島、屋久島、沖永良部の三島一万石が与えられ、種子島へ移住します。その後関が原直前の1599年には大隈半島の垂水が与えられ、屋久島から種子島へ移ります。それ以来、垂水は島津忠将の子孫が島津一門として領有していきます。これが垂水島津氏の興りになります。
 ところが、関が原で空席になった佐土原城が、しばらく幕府直轄地になりますが、島津氏と徳川家康との和平交渉が終わると、佐土原には再び島津氏が宛がわれることになります。佐土原には徳川家康により、島津以久に与えられることになり、以久は義久の許しを得て、ここに島津氏から独立した大名となります。佐土原藩の興りです。
 佐土原藩の初代藩主に指名されると、それまでの垂水の領地は、孫の忠仇に譲ります。このことによって、島津忠将の系統は垂水と佐土原との二つに分流します。
佐土原へ移っていくもの、垂水に残るものと悲喜こもごもだったようです。
 佐土原へ移った以久は、1610年京都伏見で急死します。表向きは脳卒中ということらしいようですが、実はお家安泰のための暗殺説もあり、その死は謎のままです。
 その後佐土原藩三万石は、幕末まで続きますが、本家薩摩藩の経済的援助なくしてはやっていけないほど家計は火の車だったようです。
 それにつけても、何ほどに薩摩から見れば飛び地のような佐土原の地を、島津氏に与えたのか、家康の真意はどこにあったのでしょうか。


関連情報
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