サムライたちの墓>
品川大善―島根県安来市(旧広瀬町)

写真は 月山富田城近くにある品川大膳の墓です。品川大膳は、石見の大豪族益田藤兼の家臣で、1565年毛利元就の月山富田城総攻撃の最中、山中鹿之介との一騎打ちによって鹿之介に討ち取られます。
 品川大膳の先祖はもともとは、安芸の武田氏の家臣と考えらています。毛利元就初陣の有田合戦にも、伴氏などどともに武田氏旗本として登場していますので、この系譜だと思われます。武田氏が毛利元就に1541年に銀山城を落とされ、名実ともに安芸武田氏が終焉したとき、品川氏は失業。縁あって石見の益田氏に雇われることになります。時の当主は、益田藤兼です。益田藤兼もついには毛利元就の軍配に下り、尼子氏攻略に参加します。品川大膳は、藤兼の突撃隊長のようなことをしていたようです。これももとはと言えば、中途採用という不安定な身分出身故かも知れません。
 1565年から月山富田城包囲網が敷かれ、総攻撃態勢ができつつも、一進一退の膠着が続き、なかなか突破口が見えてこない中、益田勢が城に向かって打って出たとき、切り込み隊長の品川大膳がまっしぐらに突撃。そこへ尼子随一の辣腕で通っていた山中鹿之介も打つて出ます。こうして出雲の《川中島の一騎打ち》が始まったのです。鹿之介が一人で果たしと言う説と、尼子方の家臣 秋山庵介の助太刀で果たした という説があります。鹿之介も大怪我を追ったと伝えられています。
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