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陶晴賢  広島県廿日市市


写真は陶晴賢の墓です。広島県廿日市市の洞雲寺という古刹の一角にあります。 陶晴賢は大内氏の一族で守護代として現在の山口県南陽市一円を支配地としてきた一族です。本拠地は富田若山城です。
 陶晴賢は以前は陶隆房と言っていましたが、大内義隆に背いて大内氏に豊後の大友宗麟の義弟の晴英を迎え、大内義長と改名させたおり、自身は晴英から一字もらい、陶晴賢と改名します。
 若い頃から大内義隆の側衆として常に義隆と一心同体として動いていたようですが、大内氏の出雲遠征の失敗後、主君義隆との間に溝ができていったようです。武人としての義は持ち合わせていたようで、毛利元就の郡山城にも義隆を説いて積極的に援護していまし、毛利元春とは兄弟の契りも結んでいるくらいです。しかし知恵という点では毛利元就の敵ではなく、元就の様々な策略にはまり、あえなく厳島合戦において、最後を迎えます。
 厳島に2万とも言われている大軍を渡海させるについては、岩国での軍議でも弘中隆兼などから、元就の策略だとして強い反対があったにも関わらず、厳島におびき出されます。
 この陶晴賢の行動は、単純に策略にはまったと考えるには、いろいろ問題点もあるようで、なぜ陶晴賢が厳島に渡海しなければならなかったのか、当時の状況を総合的に検討してみるべきだと思います。厳島に渡海せざるを得ない状況にあったのではないでしょうか。そういう状況を作り出したのが元就だとすれば、結果的には元就の策に落ちたといっても正しいわけですが。

  陶晴賢は最後の決戦場の厳島の山中で切腹。その地が瀬川博士によって大正十年に比定され、碑が建立されています。その首はなかなか発見できなかったようです。最後を見届けた若衆が隠れているところを見つけられ、白状してやっと隠されていた陶晴賢の首を発見したと言います。その首実検が行われた場所が、写真の洞雲寺です。
 しかし写真の墓が陶晴賢の墓であるのか、疑問があるようです。長い間 この写真の墓が陶晴賢の墓として さまざまな元就関係の本などでも取り上げられてきましたが、どうも問題があるようです。

 
 
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