サムライたちの墓>
杉隆泰―山口県玖珂町


写真は杉隆泰父子の墓です。山口県玖珂町祥雲寺にあります。
 杉隆泰は大内氏の家臣で、大内氏領内の東側の守りの鞍掛城の城主でした。
 毛利元就が1555年厳島合戦で陶晴賢を破ると、その勢いで大内氏の領土周防攻略に取り掛かります。鞍掛城は、その周防攻略の最初の標的にされます。
  鞍掛城の近くに蓮華山城があり、ここに同じく大内氏家臣の椙杜隆康がいました。この椙杜隆康と杉隆泰とは犬猿の仲で、毛利元就が周防攻略の気配を見せるといち早く毛利側につきます。杉隆泰もこれに続き毛利川に降りる意思を示すのですが、椙杜隆康が杉隆泰の毛利氏への帰属は偽りであること通報。このあたり長年の犬猿の仲が災いしたのかも知れません。
 かくして岩国に本陣を置いていた毛利軍は椙杜隆康を先導に鞍掛城攻略にかかります。杉隆泰は椙杜隆康の行いは、長年の大内氏のご恩を裏切るもの、鞍掛城の兵は最後の一兵までも戦うと、鞍掛城を枕に討ち死にします。ときに杉隆泰31歳と伝えられています。この合戦による戦死者を葬った《千人塚》が建立されていますが、その傍らには作家の宇野千代女史の碑文が寄せられています。これはこの戦いで戦死した杉隆泰の家臣の中に宇野千代女史の先祖がいたからです。

辞世の句

見よかくてくらかけの野にくちぬとも、

 和(なご)ある世をば祈りてやまん

inserted by FC2 system