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重富  鹿児島県姶良町


重富は、鹿児島市から北へ焼く20キロほどのところに位置する麓跡です。現在重富小学校跡が、平松城の跡で、島津義弘の館跡でもあります。
 島津義弘は、しばらくこの重富、そして帖佐の館に留まり、晩年は重富からさらに数キロ先の加治木に移ります。
 江戸時代には、重富は、重富島津家の麓として重要な麓として幕末で続きます。
 重富島津家は、島津氏一門の四家の一つで、島津氏本家を防衛するために、鹿児島から一日の行程内にありました。
 重富から鹿児島までは、《白銀坂》と呼ばれる山を越える街道しかなく、昭和の戦前まで鹿児島との交通網として使われていました。
 写真の背後に見える険しい山は、剣山城があった山で、この山城を守る蒲生氏と渋谷氏連合軍を、島津貴久、義久、義弘らが落とし、薩摩統一へ大きな足がかりを掴んだ合戦跡でもあります。この合戦で、日本で初めて鉄砲が使用されたことが確認されています。島津氏は種子島に鉄砲が伝来してらい、いち早く鉄砲を実践の中に取り入れた一族で、その伝統と技術は関が原で存分に発揮されます。
 現在では、目だった麓集落としては保存されては居ませんが、写真のようにその名残は今でも感じられます。



観光度 なし

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